山の声 家出
昭和五十六年五月、私は意を決して、家出した。行先は娘たちの住んでいる横浜だった。
昭和四十八年頃、三井郡小郡町に、私の兄と野中氏、私と他一人の四人共同で土地を買った。坪数は二四五八.七一坪だった。この土地を五十五年と五十七年の二回に分けて売却した。
この土地は、すぐ家は建てられるけど、村落と大分離れているため、生活に不便な点もあり、価格は安かった。
その頃、夫は一つの計画を持っていた。それは、当時、私達の住いは四階建てで、一階の部分は倉庫として使っていた。そこを夫は改造して、家賃を上げることを考えていた。
私もその計画自体は、ある程度賛成していた。職安の人夫を雇い、設計も建築もすべて自分でやるというのだった。
専門家に見積もらして、採算が取れればの話だが、夫はいろんなことに詳しいけど、専門家ではない。使うのが素人の人夫では、例え出来上がっても、思うような家賃が取れる筈がない。結局、無駄遣いに終わることになると私は言った。
このような意見の相違があり、夫と私はよく口論をした。
小郡の土地の売却により、手付金少々もらった時点で、私は家を出ることを決意した。
ひと日、外出から帰ってくると、もう職安の雇いつけの人夫が、二,三人来ていて働いていた。決意した私は先ず、実家の義姉(兄は 52 年に死亡)と、横浜の娘に私の家出を告げて、秘密を守ってくれることを頼んだ。
当座の着替えだけをまとめ、宅急便で横浜に送った。
留守宅には、当座夫が困らぬよう、米十キロ、調味料、肉、野菜、魚など、冷蔵庫を満たした。石鹸、ペーパー類まで用意し、当分はさして買わなくても、夫一人の生活はできるくらいの量である。
翌日、夫の留守中、置手紙して空港に急いだ。
「当分、私は一人になり考える。あなたもゆっくり頭を冷やしてほしい。私の行先は探さないでほしい。」と書いた。
勿論、土地売却の残金は、横浜の私名義の口座に、振り込んでくれることを、実家に頼んでいた。実家ではその通り実行してくれた。
ちなみに、この小郡の土地は、私名義だったので、夫婦間で法に触れることはなかった。
夫は、兵隊の時の関係で、簡単な食事の用意はやろうと思えば、自分で出来る人だった。パンと牛乳、また、生野菜が大好きな人でもあった。
私は、横浜に来て、遊ぶわけにもゆかず、何か習ってみようと思っているうち、簡単なアルバイトを見つけた。家政婦のやさしい仕事である。
西村晴夫、裕子夫妻のマンションは、娘の家から歩いて、十五分位の所にあった。
西村家は、幼稚園の長男と、保育園に毎日通っている長女との四人家族である。
ご主人は空港事務所に、奥さんは市役所に勤めておられた。毎朝四人が出られた後に、私は預かっている鍵で入り、仕事にかかった。
先ず、流し場の食器、鍋類を洗い、それぞれの場所に納め、室内の掃除にかかる。洗濯は家のうちに、奥様が済ませておられるので、私は干すだけである。乾いている洗濯物は、それぞれ箪笥にしまう。
私の仕事はそれだけで、時間は余るので、約束にない、タイルの壁を磨いたり、トイレの掃除などもした。
ノート一冊がテーブルの上に置いてあり、それが西村さんと私の毎日に会話で、来る道にバラの花がきれいだったことも書き添えた。
ご主人は、宗教研究が趣味らしく、いろいろな宗教の書物が、六畳の部屋のいくつかの書棚に、ぎっしり詰まっていた。
「書物は、良かったらどれでも自由に、読んでください。持ち帰って読まれても、良いですよ」
と言われて、次から次にお借りして、読んだ。自分の仕事が終わった西村氏宅で、私は弁当を食べ、テレビを見、新聞を読み、書物を読んだ。午後三時頃帰るまで、私は別荘で過ごすような気持だった。
今でも西村宅とは、年賀状は取り交わしているが、お会いする機会はない。
土、日は西村家の仕事も、休みなので私はよく散歩した。
私が家を出て、七ヵ月半も経ったある日、夫が入院したことを知らされた。私は、即座に福岡に帰ることを決意した。
「今帰ったら、何のために出て来たか、意味がないと思うが」と娘婿は言った。
「私は、今後二度と、このような状態で、お宅に来てお世話になることはないでしょう。主人が病気だったら、私は帰ります。」
夜、自宅について、翌日浜の町病院に、夫を訪ねた。
娘婿も娘も、私が七ヶ月半も滞在した間、嫌な顔一つしなかったことは、有難いことだった。私の七ヵ月半は決して無駄ではなかった。私は多くの書物を読む機会に恵まれ、いろんな人との出会い、自分を反省する時も持てた。一人で日吉の野道を散歩する時間など、本当に私は楽しかった。時には畑で働いている人と話し、青菜を分けてもらって来たりした。
娘のお蔭で、小旅行もした。伊豆とか、水戸とかの旅は、思い出に残っている。
もう一つ良かったことは、次女道子達が、東京に住んでいたので、横浜からは近いし、時々訪ねた。或るひと日、私は、佼成会の偉い人と、対談の機会を得た。この方から受けた感銘も、私にとっては、貴重な体験だった。
夫からは、嫌味の手紙や、恐喝めいた電話も掛ってきたこともあるが、夫は夫なりに、反省の時間を持てたことと思う。
もう一つ私の体得したことは、私は春に家を出て、夏を迎えた。家には夏物は沢山あるけど、送ってくれる者がなく、夏物二、三枚買っただけで過ごした。そんなに見苦しい恰好をしてもいなかったので、最小限の物があれば、無いならないで済むことも体得した。
これは一つの発見であり、経験だった。