横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

早津山の方は、道路もまあまあ良くなり、日に数台、荷を積んだトラックが、山から下っていた。

ある日、一台のトラックが、山から荷を積んで、降りる途中、カーブを曲がりそこなって、谷に落ちた。道の片側は、川に続く幅広い傾斜で、川には水が少し流れていた。

車は、落ちる時、三回転して、川に落ち、運転台の天蓋ははがれていた。

車に乗っていた三人は、車外に放り出され、積んでいた木材は四散した。しかし、運転手と助手の二人は、車の下敷きにも、材木の下敷きにもならず、大した傷も負わずに無事だった。一つ間違えば、大惨事になりかねなかったと思い、神仏の加護に感謝した。

山の仕事は、危険がつきもので、特に、早津山のように大きな山は、毎日が危険と隣り合わせだった。

今までに沢山の人が働いていた。でも、大怪我する者もなく、勿論、死者一人でなかった。今から考えても不思議とさえ思えた。

八女で、あまりにも税金が高くなったこともあり、日田転居を決心したのであった。

ところが、日田税務署でも、目を付けられ、税金はますます高くなった。

日田の住居を買った年は、七百五十万円の税金がかかってきた。国税局からは、二日も居座られて、調べられた。色々、交渉した挙句が、右のような金額となった。

私は或る日、四百五十万円の現金を持って税務署に行った。

「これ、税金の内金です。四百五十万円、あります。受け取ってください。」、と言って、金の包みを置いたら、署員は皆、私の方を向いて、驚いた顔をしていた。

それからは、税務署長が替わる度に、私の所に、挨拶に来ていたように思う。

昭和二十七年に、日田三本松町に、住居を買った。敷地百四十坪、建坪六十坪のまだ新しい家だった。

この家は、昔から、資産家である人の建てた家で、木造二階建ての堂々たる建築だった。部屋数は十部屋ほどあり、うち応接間と書斎は、洋間になっていた。三本松町の目抜き通りの角地に建ち、玄関とは別に四間の間口のある土間が十五坪ほどあった。

買い取り価格は、百五十万円だった。この通りでこの建築としては、割安だった。

「私達もやっと、家らしい自分の家が持てた。」、と感慨もひとしおだった。

この家に、母を招待できなかったことは、返す返すも残念でならない。もう一年生きていてくれたら、さぞ喜んでくれただろうにと、悔しく思い出される。

この頃、早津山を売らないかという人が現れた。

「どうする。売ってみるか。まあまあの価格では売れると思うが。」

夫は私に言った。

「そうね。この辺で、手を引いた方が良いかも知れぬが、やっとここまで漕ぎつけて、今から山も、楽になるはずじゃあないの。」

「だから、買いたいという者が出て来たんだ。最初は誰も手を付けなかった。勿論、金額の大きい点もあるが、あの道は誰も作れない。」

更に夫は続けた。

「人々は、あの山を買う勇気はなかった。その山が、今ドンドン出材しているので、欲しくなったんじゃろ。」

こんな話を、二人はよく繰り返し話していた。また、第三者にも相談した。

私も今まで、我武者羅に働き続けて来て、この頃は、大分疲れていた。家庭に落ち着きたい気持ちもあった。

「一層こと、半分だけ売ったらどうでしょう。」

私は、全部売るのは惜しいが、半分なら売っても良いかも知れぬと思った。

「そんなこたぁ、でけん。分けようがなか。」、と夫は言った。

山の仲買人は、今度も、また、度々やって来た。

結局この辺で、売却の気持ちが動いた。

あのような危険なことばかり、やっていたのに、一人の死者も負傷者も出さずに来て。これから先どんな不祥事が起こるやも知れず、この辺で手を引くのも、得策かも知れぬと思うようになっていた時なのだ。

今までに、既にかなりの利益を上げているし、最初は冒険と思われたが、一応成功したと言えよう。朝鮮動乱で材木も、価格が上昇しているので、良いチャンスかも知れない。

山を売るのに、分割の仕様がないと、夫は言っていたが、買い手の都合もあり、また、仲介人の頼みもあって、一区画の立木を、一千五百万円で、日田の田中木材に売った。

更に、別の一区画を七百万円で、大鶴木材組合に売却した。また、暫くして、この組合に別の区画を四百五十万円で売却した。

それから、山の上部の方の区画を、千万円で倉田商事株式会社に売却した。

最後は土地だけ残った。

伐採した後の土地には、杉苗を四十万本、植え付けていた。

この土地を売却したことは、今思えば返す返すも残念だ。

買主のたっての希望により、五百九十万円で、この土地を田中木材に売却した。

これで、早津山の全部を売りつくしたことになる。自宅で今まで、出材した分を含め、相当の利益を収め、有終の美を飾ったと言えよう。