横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

何故、このように儲からない保証人に判を押すかというを考えてみると、人間には威張る気とカサ気のないものはないと言われる様に、知人が平身低頭で頼みますと言われるものなら、「ヨシ、俺が」と、町議か町長になるのと同じ気持ちで、俺の印判があれば金が借りられる、人助けができると、天下の将軍気取りで、優越感いっぱいで、あとの苦労を知りながら、保証人になったことと思われる。

これが自分を機関区長にさせた遺伝的思想かも知れない。

斯う考えてみると、矢張り親子相通ずるところがあり、やかましく言いながら、また、言われながらも世継ぎは一夫だと心に決め、また、自分も貧乏世帯を受けねばならぬ宿命と考えていた。

月25銭の授業料を納めて貰い、高等小学校に2年通学、当時の家計から想像すると、期待される自分と親父の期待する気持ちが一致し、自分の転機になったのもこの当時であった。

躍如たる俺の態度に今までの子供扱いから大人扱いに変わった親父は斯う言った。
「俺は学問もなく、百姓しか芸がない。仕方なくこれで終わるが、若い者は頭を使い、知能労働につくことだ。新聞くらいは読めよ。」と、当時のローカル新聞だった関門日々新聞をとってくれた。その他、早稲田の通信講座も受けることにした。

このように子供の教育には力を入れる一方、仕事のことについても方針を決めようと考えていたようだ。
お前は小利口で計算高いから、大工職を身につけてはどうか。
大工の誰彼は昔は貧乏だったが、今は独立している。
そこで、早速、これを了承。卒業した年の8月、平原の岩間新吉氏を師匠として弟子入門した。弟子入りはしたものの子守と百姓の手伝い。厭気がしている内に、年を越し2月に松岳畑の田辺豊八方の本家新築で、本当の大工職人の仕事をすることになった。

昔の職人は“三尺下り師の影を踏まず”と師弟の厳しさ、また、兄弟子として幅を利かすことは想像に絶する。
仕事の上でとやかく言われることは仕方ないとしても、行住坐臥、四六時中先輩風を吹かせる。
食膳に向かう時など遅く膳につき、早く席を立たねば怒られる。
まことに、不自然、不合理、不愉快だと思う矢先、木材移動作業中、あわや、下敷きにならんとする時、助成を得て何を免れホッとした。
兄弟子は半ばカラカイ半分の作業。今で言う安全第一なんか糞食らえ。人権無視の態度には、ホトホト大工職の人間関係が嫌になった。