自分の言う「和」は平和で仲良く事なかれ主義ではなく、お互いは一人で生活で出来るものでなく、常に凡ゆる人に支えられて、助けられて日常生活が営まれるものである。
即ち、食うためには、百姓や漁師の世話になり、手紙を出せば、何人かの手を潜り、20円の手数料で遠い目的地に到達する。
このように考えるてみると、事々左様に常に人の力を借り、生活していることが判る。
こうした謝恩的な考え方で世渡りすることが、私の言う「和」であり、親父もこれに徹していたので、“牛玉ヶ谷の啓サー”と言えば、面白い、いい人だと人気抜群だった。
しかし、この精神に徹していただけに、次のような悲劇の起こるのも否めなかった。
と言うのは、気安く人の保証人となり、半を押して債務を背負わされ、貧乏な上に生活苦に悩まされた。
覚えているだけで相当あり、
「お前、金を融通してくれ」と言われたことも再三で、家庭に波が立つ原因でもあった。
その一例として、親父の死亡直後のことであった。
借家の保証人で、自分んが家督相続するとみるや、山口にある裁判所の民事法廷に、
「被告、その方は、」と立たされたことがある。
原告塩田虎之助とは一面識も無く、法廷で初対面。
連帯保証人二人いたので、二人が分担。
当時の金で、給料の2ヶ月分を支払った。
こんなことが後何回あるかなと不安だったので、母に相談すると、
「一切知らん」、「サアー?」と夫唱婦随形の母としては、親父のやったことは、一切没交渉。
これが父と母の関係で、本当のワンマン親父。いつも独断専行しているらしかった。
しかし、その後は問題もなく、一文の借銭なくホッとした。