横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

私は1968年に岡山の大学に入った。
半年間は、新しい生活に慣れるため必死だった。
初めの三ヶ月は親からの仕送りに頼った。だけど、それ以降は自活しようと考えていたため、大学の入学式の一週間後の夜には、キャバレーでお盆を持って、ビールなどを運んでいた。
まさに苦学生の典型であった。
ところが、その年の夏の夜、学内を自転車で下宿に帰る途中、ある光景に出くわした。
俗に言う内ゲバである。
当時は、学内に過激な中核派と共産党青年部の民青が激しく戦っていた。
その晩は、中核派の数人が民青の数人に2メートル以上もある角棒で襲いかかっていたのだ。
そんな状況の中、警察が偵察という名目で、学内に入ってきた。
問題はここから始まった。
学内では、警察権力が学内に入ってきたことで大騒ぎになった。いわゆる、学問の自由が警察権力に侵されるという大問題である。
学内では集会が開かれ、大学として警察権力が学内に入るべからずという声明を出すべきだと学長に迫る。
しかし、戦後25年も経つと年取った教授などはそんなことなどどうでもいいと考えていたらしい。
学生の要請など聞くはずもない。
そこで、そんな誠意のない態度に対して、学生はストライキに入るのだ。
当時は、1970年の安全保障条約の自動延長が背景があり、それに反対する全国の大学生はその闘いに向けて、活動していた時期で、それぞれの大学は色々な理由でストライキを始めていた。
最も過激で、話題になったのが、東大の安田講堂事件である。
岡山では、入試前に機動隊が学内に入って来るというので、多くの学生は学内に結集した。
そこで、石を投げて抵抗する学生もいた。
ところが、その投げた石で一人の機動隊員が死んでしまった。
このことで、学内紛争は激烈を極めることとなる。
この紛争は私が三年生になるまで続いたのだ。
その間、私の頭にあった常識やら価値観はボロボロに壊れていった。
そんな私は、生きることの意味を哲学として勉強することになった。私の専門である物理はそっちのけで。
そして四年生になった私にある日、友達が、
「お前、来年卒業するのか?」
と聞いてきた。
私はそこではたと立ち止まった。
「卒業する気なら、**教授のところに行け」
私は、言われるままに、**教授のところにいってみた。
私は、物理学を専攻していて、その学科は家族的でとても良かった。
「佐藤、東芝を受けてみろ」と言われて、それから二ヶ月後、東京まで、試験を受けに行った。

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