横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

中国ビジネスは1980年代に入り、鄧小平の改革開放路線に乗り一気に活発になっていった。
まだ、中国経済の方向がはっきりしないことから、東芝も手探り状態であった。
そこには中学卒上がりの福山の存在があった。
彼は、中国友好公司の山東社を使い、ビジネスを伸ばしていった。
中国からの買い付けミッションが来るとホテルニューオータニに泊まりこんで接待漬け。
福山の部下が、現金700万円を経理から引き出す光景を何度も見た。
まさに狂った時代である。
その結果、山東社の社内もグチャグチャ。
福山のやり方はいつでもどこでも、無法状態を作り出していた。
彼の口癖は、「つべこべ言わず、結果を出せ」である。
1990年代に入ると、これではまずいと、福山が切られる。
しかし、東芝の課長も福山の無法状態を正常に戻すことができなかった。
そんな時、増井が国際部長として登場したのだ。
しかし、どちらかと言えば、増井も無法状態は嫌いではなかった。
ある時、増井は私に声を掛けて来た。
「佐藤さんは、今の山東社のあり方をどう思いますか?」
と聞いて来たので、
「私は中国ビジネスにはタッチしたことがないので分からない。」
と言うと、増井は、
「実は、横川を山東社の社長にしようと考えているから、佐藤さんも横川をサポートしてやって欲しい」
と言うのだ。
横川は、増井の前任者で、退職後、山東社に入ることになっている。横川は、長い間、私の上にいて、いろいろ面倒を見てくれたので、今度は私がお返しする番と考え、オーケーした。
横川が山東社に行く前、藤木君が先兵として行くことになった。
藤木君は私より一歳下。
そんな時、増井の所に東芝の取締役から連絡が入った。
「今、東芝の半導体では、サンジャパンという会社にソフトウェアの開発を外注している。ついては、彼らは、中国で医用機器販売の計画を持っているから、一度会ってみてくれ。」
増井と私はサンジャパンのトップ三人に会って、彼らの話を聞いてみた。
彼らは、とても頭が良く、中国の医療事情も詳しく、将来ビジョンも素晴らしかった。
そこで、定期的にミーティングを持つこととなった。
とても、山東社の連中の口から出て来ることのない展望を彼らから聞けた。

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