横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

人生とは何が起きるか分からない、と思う。
増井が、孫仁を社長にしようと考えた時、私はもうお終いだと思った。
腐り切った山東社を替えて、サンジャパンと共にゼロからスタートすることを真剣に考えていた私は、本当にもう駄目だと思った。
しかし、増井は私とは一寸違うアイデアを持っていた。
この男は、バッサリと人の関係を切らない男だった。この点だけは、評価できるところだ。私には真似が出来ない。
孫仁とサンジャパンの三人をいとも簡単に会わせるのた。
当時はサンジャパンの三人が提案した第一歩は既に動き出していた。
彼らは東芝の拠点病院は北京協和医科大学にすべきだと主張したのだ。
ここに東芝のハイスペックの医用機器を納めるべきだと言う。我々は分からないまま、彼らのアイデアに従った。
価格も特別なものを提示した。
サンジャパンの三人の代表である劉氏は北京協和医科大学のトップを知っており、我々の提示価格で購入することを決めてくれた。
その段階で、増井は孫仁と手を握り、山東社経由で機器を納めることにした。サンジャパンにとっては増井に騙されたことになる。
これは私も許せなかった。
しかし、増井は強引に、孫仁とサンジャパンに手を結ばせた。
そこから、本当に信じられないことが起きていくのだ。
今度は孫仁が底力を見せたのだ。
孫仁の母は、太平洋戦争前に中国に日本語の教師として派遣されたと言う。そこで、中国人と出会い結婚したのだ。その父は中国共産党の幹部候補生だったようだ。
ところが、父よりも母親の方が中国共産党の幹部から尊敬されていたと孫仁が私に語ってくれたことがある。
すなわち、母親に教わった生徒の多くが出世したと言う。
そんな経歴を持つ孫仁は中国で育ち、中国共産党幹部の子供達とよく遊んでいたと言う。
そんなこともあり、孫仁は我々に、北京の人民大会堂で東芝パーティをやろうと言い出した。
実は、当時の我々は増井共々冗談ごとと思っていた。
しかし、孫仁は我々からしばらく身を隠している間に着々と準備をしていたらしい。
次に孫仁に会った時には、あらかたパーティの内容が固まっていた。
孫仁は増井に東芝からは社長が出て来るかと聞いて来た。
増井はトップに確認した。
唐突なこと故、社長は出られないから、会長の渡里さんに出てもらうことにすると言ってきた。
そして、いよいよパーティが始まる日、渡里会長がジェット機のタラップから降りて来た時から、中国側の警備が両側に付き、車に乗り込むと、前後を数台のパトカーが付いて走った。信号は全部青にしてあったと言う。
中国でもこんな待遇は滅多にあることでは無いと言う。
大会堂には千人以上の客が招かれていた。
東芝パーティというのに、我々は自由に中を動き回れない。
このパーティには、保健省の大臣も来たがそんなのは、地位としては下っ端。
最も高い地位の人間は中国共産党の序列4位の人が出て来た。
このことはとても凄いことだと言う。
日本で言えば、財務大臣が出席したようなもの。
いや、そんなレベルと比べるべきではないかも知れない。
料理は大会堂の厨房から専門のボーイが運んで来る。
写真を撮るのはもちろんご法度。
この夜のことは、あまりにも緊張し過ぎて、正しく表現できない。
ともかく、30歳後半の男が、色々画策してここまで持ってきたことに対しては、評価せざるを得ない。
このパーティが終わり、渡里会長と孫仁を囲み打ち上げを行ったが、渡里会長と孫仁がガンガン、ウィスキーをあおり、何度も抱き合っていた光景だけが思い出される。

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