横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

既に書いたように、東芝に入社する前は大学で生きることの意味を真面目に考えていた。
そこに、大学内紛争が起き、全共闘運動の中で、私は本当に行き場を失ってしまった。
そんな時に見つけた本が、高橋和巳の“憂鬱なる党派”や“日本の悪霊”の本に巡り合った。
私はそれまであまり本を読む人間ではなかったが、この人の本は私と波長があったのか、私が思い惑っていたテーマと合致したせいか、とても興味深く読めた。
その結果、なるほど、私の行動は全て私が責任を持てばいいのかとごく当たり前のことを悟ったのだ。
この人のお陰で、実存主義という概念を知ることができた。
しかし、大学を卒業して、東芝に入っていても、実のところ、自分の人生の目的なるものは見つからなかった。ただ、ガムシャラに与えられた課題をこなして行くだけの生活だった。
東芝で設計部に配属されたら、電子回路図面を描くための勉強をし、輸出部に配属されたら貿易実務、英語力、製品知識などを勉強した。実はそれだけで目一杯のエネルギーを費やしていた。
海外出張こそはそのご褒美みたいなものだった。
海外の人々の物の見方の違いや文化の違いに興味を持って接した。
輸出部に入って、しばらくは海外からの手紙を処理することが多かった。その大半は、自分の国で東芝医療機器の販売代理店をやらせてくれというものだった。
その回答は、いつも、医療機器は納めた機器のメインテナンスが大事で、貴国には当社としてそのメインテナンスのバックアップができないから当面は販売は致しません、と書いていた。しかし、こう書きながらメインテナンスの体制を取ればいいじゃあないかと自問をしていた。
私が輸出部に移り、ブラジルを中心とした中南米を担当したのち、北米担当に移って間もなく、サンフランシスコで世界産婦人科学会(FIGO)が開かれた。
このブースアテンドとして私は行くことになった。
サンフランシスコの空港を降り、税関を通り、荷物を持ってタクシー乗り場に移動しようとしたところ、私の肩をステッキで軽く叩いたやつがいた。振り返ってみると70歳以上の紳士で、自分の荷物をタクシー乗り場まで運んでくれと言う。
その代わり、100ドルをくれると言う。
私は自分のスーツケースとじいさんの荷物をカートに入れてタクシー乗り場に運んでやった。
じいさんはポケットから100ドル札を握って私にくれようとしたから、私は断ってじいさんをタクシーに乗せてやった。
じいさんは、「お前はどうして受け取らないのか?」という表情で車の中から手を振っていた。
翌日から学会の展示会場に私は立った。ブースには最新の超音波診断装置を展示していた。東芝のアメリカ人スタッフはアメリカの医者の対応をし、それ以外の国の医者の対応は私が行った。
初日は無事終わり、翌日からは綱島が来てくれた。
綱島は職場の先輩の結婚式のために一日、サンフランシスコに入るのが遅れた。
私と家内もその結婚式に招待されていたが、家内だけが出席した。綱島は、私に、
「奥さんと会いました。お腹の娘さんも元気だと言っていましたよ」と報告してくれた。
その日、ガボンから髭モジャモジャの50歳くらいのドクターがやって来て、この超音波の装置はいくらだと聞くので、約30,000ドル(当時のレートでは多分500万円相当)だと答え、国はどちらかと聞くと、ガボンと答えた。
私は慌てて、ガボンにはメインテナンスの問題で販売出来ないと説明したが、そのドクターは聞く耳も持たない風でそのまま行ってしまった。
そして、翌日になって、アタッシュケースを抱えた昨日のガボンのドクターがやって来て、これを買うから、と言う。
私は、慌てて、「申し訳ない、これは売れないんです」、と言うと、
そのドクターは、
「アメリカや日本には診断機器が何台もあるが、ガボンには一台もない。これがないと、生きるはずの子供が死んでしまう。是非、売ってくれ。メインテナンスでは迷惑をかけないから。」と強く迫って来た。
私は、残念ながら、あるいは、当然ながら売らなかった。
その夜、私は一人悩んだ。
どうあるべきかと。
そこで、私は結論を出した。
これからは、積極的に売ろう、と。
売る仕掛けを考えればいいのだ、と。
メインテナンスは、代理店を育てて、彼らを一つのチームにして、お互いに助け合えばいいのだ、と。
また、後進国には装置の使い方や診断方法を教えなければならない。
そのためには、有名な日本の医者を送り込み、日本の医者と海外の医者を繋げてやればいいのだ、と。
この結論のための仕掛けを色々な知恵を使って行えばいいと考えたのだ。
そんなところには東芝の利益など考えている暇はない。
後は闘うだけだ。
しかし、そう簡単には会社を説得できない。
自分の力だけではやはり限界があった。
そこで、利用したのが“ヤクザ”の増井であった。
増井はこの点において非常によくやってくれたと感謝している。
しかし、増井にも誰にもこの私の計画を話したことはない。
お陰で、私の知らないところで沢山の人の命が救われたのではないかと自負している。
私のこの仕事に関わってくれた私の部下、上司、ドクターには感謝したいと思っている。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください