横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

運良く岡山大学に入り、まさに私の人生が始まった。

親父が借りてくれた2階の3畳の部屋が私の人生の始まり。隣の部屋は多分8畳の部屋に廊下がついていて、外の庭が見られる贅沢な部屋だった。親父は、私の大学合格の数日後には岡山に行き部屋を探してくれたのだ。

私の借りた部屋は、立派な庭のある屋敷で、多分、70歳近くのお婆さんの持ち物だった。お婆さんは一回の部屋に住んでいた。その家には、1階に中年の夫婦も間借りで住んでいた。私の隣の部屋の学生は、岡山の水島出身の工学部3年生だった。真面目な人だったが工学部の学生だから実験実験で、私と話す機会はあまりなかった。私は3畳の部屋で十分だったが、ただ夜中にトイレに行く時はお婆さんが寝ている部屋を通っていかなければならなかったので、そこは1年で出て行った。

次に移ったのは、大学の正門から500メートル位の所だった。ここは、小学生と中学生の子供とその母親の3人と、学生が8人くらいが下宿していた。ただ、この奥さんは気難しい人であった。ここは10ヶ月程度で引っ越した。

次に引っ越したのは60歳以上の老夫婦が住んでいた。この奥さんもだいぶ変な人で、突如、コーヒーを持ってきてくれたりするが、その持って来方がとても変なのである。私の部屋は2階で、誰かが2階に上がってくるのは足音でわかる。その足音がドアの前でピタッと止まっても扉を叩かない。そこで、私が扉を開けると、お婆さんがコーヒーをお盆に乗せて立っていると言った具合。私がお礼を言うと、静かに階段を降りて行く。でも日中のお婆さんはとてもおしゃべり。ちょっと精神分裂症気味のおばさんだった。だから、そこも、10ヶ月足らずで移転した。

次は大学から随分離れたところを借りた。ここが最も居心地は良かった。岡山の広い屋敷の離れの部屋を借りた。だから、家の出入りは庭から直接出入りできた。その家には50代の夫婦と娘さんが二人。でも日頃は会っても遠めから挨拶する程度であった。この下宿で私はいろいろな本を読むことができた。大学から離れていたこともあり友達は全く来なかった。唯一来たのは家庭教師で教えていた高校生くらいのものだった。それまでは私が生徒の家にバイクで通っていたが、彼が高校二年生になって、私の下宿に通うようになった。

大学二年生までは手当たり次第に本を読んだが、行き着いた私のテーマは、“主体的に生きるとはどういうことか?”という問題であった。多分、この当時、生きる意味を探していたのであろう。大学の座禅クラブに入ってみた。クラブのメンバーは僅か5人程度。活動は、朝7時から1時間座禅を組むだけ。部屋に入り、一本の線香に火をつけ、壁の前に起き、そこに自分が座る。閃光が燃え尽きるのが1時間。その間何も考えないように努め、ひたすら、眠らないように、半眼でいる。人間は、半眼でいようとすると必ず眠くなる。これを会得して、私は睡眠の際に活用した。このクラブの忘年会の際に、岡山県の座禅の会を推進していた会長を呼んで鍋を囲んで話し合いをしたことがあった。その際、我々のクラブにいた人で修士課程の人がいくつかあ質問をした。なかなか鋭い質問だったが、今日その質問の答えが、「君は手に5本の指がなぜあるのか考えたことがあるか?このテーマに全ての解があるんだよ、キミ」と返してきた。私はこの会話を聞いた瞬間、このクラブを辞めることにした。

私のテーマはいかにして主体的に生きるかであった。本のタイトルに“主体的”という文字があればそのほんをかいたくなったほど。そんな本を読んでいるうちに、考えるテーマが“不安”に変わって行った。そこで、キルケゴールの”不安の概念“を買ってきて読むが、何のことやらサッパリ分からず。しかし、どうも私の探しているものは、実存主義に関係あるものであることに気づく。実存主義はというとサルトル。この本も読むが抽象的すぎてあまりピンと来ない。そこで、実存主義に関係するドストエフスキーの罪と罰、カラマーゾフの兄弟などを読む。しかし、それでもピンと来ない。ところが、日本に高橋和巳という人がいて、この本は面白いという評論を読み、早速、”日本の悪霊“を読んだ。この時、高橋和巳の文体やテーマが実に面白いと思った。次に、”非の器”、“邪宗門“、”憂鬱なる党派“などを読んでいった。そこで、初めて私は解を見つけたのだ。即ち、何をやってもいいんだ。人からどう思われてもいいんだ。但し、自分のやった行為には自分が全責任を持つこと。このことを意識して、実存主義の本を読んでみると、なるほどそれらしきことが書いてあることもわかった。実はこれが私の悟りであった。それ以後の私の生き方はこれがベースとなった。私にはもう一つの本がある。柳田 謙十郎の弁証法十講 (1966年) (角川文庫)である。当時、弁証法がどんな概念かを勉強していた時、この本を見つけた。これも私の世界観に大きな影響を与えた。

因みに、高橋和巳は当時、京都大学の講師か助教授で、そのうち、手紙を書いて、会いに行こうと思っていたが私が4年生の時に自殺してしまった。当時は大変悲しく思ったことを思い出す。

高橋和巳の本に私を導いたのは文殊菩薩と思っている。

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