横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

今日、外を歩いていたら、ふと祇園のことを思い出した。この祇園とは岡山大学入学当時出会った友達の名前である。

彼は岡山出身の男で、気の優しい人であった。彼は教育学部専攻だったと記憶している。

私は大学に入ると、特別な理由もなく、学内で勧誘されるままに柔道部に入った。祇園も同様、柔道部に入ってきた。他に同期の新入部員は多分20人以上はいただろう。

祇園は中肉中背であった。ところが、練習を初めて20日も経たないうちに、後頭部を打って、入院してしまった。入院のため、退部届が届いたことは覚えている。当時は可哀想にと思っていたが、後にこれが原因で、亡くなってしまったと聞いた。この時はとても人ごとには思えなかった。

日々の柔道部の練習は厳しく、何度も、落とされることがあった。落とされるとは、頸動脈を閉められ、窒息状態が続き、そのまま意識がとんでしまうのである。気がついた時には鼻水をダラダラ流している自分が畳の上に横たわっているという状態。私は道場に通うことがとても辛くなっていった。

ところが、同じ柔道部に入った男で、後(ウシロ)という男がいた。体重も私より少なく細身といった姿。身長も私より若干低い。歩き方が内股ゆえ、柔道にはとても向いていないように思えた。この男の出身は京都の嵯峨野。当然、京都弁。この後は理学部の生物学科。

柔道の練習といっても適当に休んでいたのを思い出す。

私が真剣に柔道部を辞めようと真剣に思っていた時、この後に出会す。彼に辞める話をしたら、「やめたらいいやん」と返ってきた。それほど真剣に考えることはない。自分もキツくて行きたくない時は休むことにしている。

私は思った。こんなナヨナヨしている男が、実は生きるという考え方は実にしっかりしていることに驚いた。

大学四年生になった後は、白衣を来て学内を歩いていたが、生物を勉強している姿にやはり、この男は立派だと思った。

実は人生いろいろだということを書いているつもりが、何故かもう一人の男が私の脳裏に現れた。

生方(ナメカタ)という男である。

彼は理学部の地学科で私と同期。実はこの男の存在は大学二年に初めて知った。私が一年生の秋に岡山大学の学園内に警察が入ったことから、問題が起き、翌年の正月に学内に突撃した機動隊との衝突が起きた。その時、学生の投石で機動隊員が死亡するという事件が起きたのだ。

ここから、大学闘争、全共闘の闘争というものが勃発したのだ。学内では毎日のように集会が起こりそこでは学生活動家の演説が巻き起こる。そこに生方が登場してくる。彼と話をしていると、実に色々な本を読み、勉強していることが分かるほど。人間的にも実に素晴らしい。その生方の口から、次第に革命の話が多くなっていった。そして、彼は赤軍派に入ったという情報も入ってくるようになった。当時、赤軍はは岡山には居なかったので、全国を巡っていたようだった。大学三年の秋に生方が岡山に帰って来たという話が流れたので、友達と連絡をとって、生方に会うことができた。その時はどうも鹿児島大学にしばらくいたという話だった。

たった一晩だったが、彼と話ができて良かったが、それから、半年後、あさま山荘事件が起きた。我々、生方を知っているものは、浅間山荘に立てこもっているのじゃあないかと思って、テレビを見ていた。

しかし、そこには生方はいなかった。後で分かった話だが、彼は永田・森一派に内ゲバで、殺され、妙義山に埋められていた。

 

長い人生には色々あったなあとつくづく思う。

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