以前から生まれ故郷の不思議な名前、厚狭(山口県山陽小野田市大字厚狭・旧厚狭郡山陽町厚狭)はなぜ厚狭なのかを知りたくて心の隅にずっと留めていた。
大阪に住み始めた頃、当時は新幹線がなくて帰省は夜行列車で、大阪を夜に立つと朝に厚狭駅に着き、見知らぬ乗客が「朝に厚狭かー」と言っていたのが記憶にある。 厚狭ー厚狭ー美祢線乗り換え(アサーアサーミネセンノリカエ)懐かしい駅のアナウンス。
周辺の地名に厚東(ことう)、厚南(こうなん)、厚西(こうせい)があり厚狭が古くからこの地域の中心であったことは間違いない。
昭和36年刊行の山陽町史資料編上巻に江戸時代毛利氏治政期の民政資料「風土注進案」が載っているがこれに2つの伝説が書かれている。
昔、朝日市と言っていた。その訳は隣の船木住吉社境内に大きな楠が繁り太陽が樹上に昇って始めて拝すことができるため朝日市と呼んだがいつの間にか厚狭市に転じた。
・厚狭市は多く麻作をしており麻市と言っていたのを厚狭市に改めたもの。
これではなかなか納得出来ないが、最近きっかけがあり「山口県地方史研究会」に素人ながら入会させてもらい機関誌のバックナンバー1968年6月号に「厚狭の地名ついて」の研究ノート掲載が有るのを見つけ運よく在庫を取り寄せる事ができた。
当時小野田市在住の森口昌子さんの研究である。それによると
日本の古い地名を記載している書物「和名抄」には厚狭は<安都佐>atusaと訓じてあり又「日本国郡沿革考」には<阿佐>と訓ず今専らこれによる、と記載されているとのことである、さらに複数の研究者がasaとは水の浅いところを意味する地名で同根語として広島県の安佐をあげている。
また、記録の上での「厚狭郡」は天平8年(736年)正倉院文書の「長門国正税帳」が初見であると昭和59年発行の山陽町史に記されている。
これでかなりの事が分かってきたがなぜ漢字で厚狭と書くようになったかが解明出来ていない。
厚狭の北方美祢市に厚保(あつ)という地名があり中世に厚氏(あつ氏)という地方豪族が居たことが判っている。また、厚狭は美祢厚保に向けて地理的に狭くなる狭間に当たることも間違いない。
私はこれらにヒントがあるように思うのだが、決定打は何処に有るのだろうか。先は長くなりそうだ。
この記事は、下記のブログを借用させて頂きました。