私は生きていて、何のために生きればいいのかと、いつも自問自答している。
しかし、未だにその回答を得るに至っていない。
しかし、最近、なぜか見てきたような気がする。
この世の中になぜ法則が存在するのだろうか?と疑問に思う時、そこにヒントがあるのではなかろうか?
なぜに、生物には遺伝子があるのか?
なぜ、鉱物には遺伝子が無いのか?
遺伝子には、何が埋め込まれているのか?
私は思う。
遺伝子の基本的思想には、共に生きよということだと感じている。
遺伝子には種を生きながらえることが埋め込まれているのだ。
たとえ、生命体の1個体でもいい。 生き残れるのであれば。
種には目指す物、あるいは場所があるのだ。
そこに到達すれば、新しい種が生まれてくるのだ。
その目指す物、あるいは場所は一般のものには分からない。
ただひたすらに、泳ぎ続けるべきなのだ。
我々の種は後世のための犠牲者であればいいのだ。
同一の種が争い合って、絶滅することだけは避けるような仕組みも入っている。
7割~8割が生き残るために、2割~3割が犠牲になるように仕組まれている。
仲間が殺し合っているのも想定なのだ。
その様を見て、あんな馬鹿な真似はしないようにと感じさせているのだ。
いつも悪者は存在するのだ。
また、一部のものは冒険するようにも出来ている。
冒険者の多くは、悲運な一生を送ることもある。
誰も歩いたことのない道を歩むものは、犠牲になるのだ。
彼らの犠牲の結果、後から来るものは、安全に歩いて行けるのだ。
こうして考えると、助け合いこそが我々に期待されている。
不幸にして悪役を演じなければいけない人には手を合わせてやるべきだ。
人生50年60年では、人生の最終到達点には行けない。
しかし、確かに次世代に子孫をつなげてやるこそ大事なのだ。
仲良くもいいし、喧嘩もいい。
その一瞬一瞬を大事にすべきだ。
立ち止まって、じっと目を閉じると、何かが聞こえてくるはずである。
亡くなった親かも知れない。
おじいさんやおばあさんの声かも知れない。
彼らは、頑張れとは言わない。
彼らは、右に行け、左に行けというのだ。
止まれともいう。
すべてこれらの声は、種を守れという声であることを忘れてはいけない。
隣人を守り、子供を守る。
これでいいのだ。
守り切った時の気持は実にさわやかである。
さわやかだという実感、気持ちがいいという実感、こういう実感を 味わうことをしろ。
ぞっとしたり、嫌な思いをすることだけは避けよ。
仏教では、喜捨せよ、とか、布施をせよという。
私は、今まで、お釈迦様はうまいこと教えたものかと思ってきた。
この喜捨やや布施で自分達はやっていけるのだから。
しかし、そんな考えは罰当たりである。
喜捨や布施をすることで、こんな気持ちがよくなることはない。
すなわち、欲を廃せよというのだ。
欲こそが、種を破滅に追い込むものである。
そう考えると、お釈迦様は我々に間接的に教えているのだ。