横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

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熊谷次郎直実、この人の名前は、知っている人は多いであろう。

義経の軍勢が平家を攻める一ノ谷の合戦において、16歳か17歳の平敦盛(あつもり)をこの直実が討ったのである。
直実はその後人生の無常を感じて出家してしまった。
平家物語にはそう書かれている。

だが真相はちょっと違うらしい。
直実は平家討伐に功績があったにもかかわらず、頼朝は彼を評価しなかった。
彼は憤懣やるかたなく出家したのだという。
頼朝が、結局、義経を評価しなかったように、義経の部下を評価しなかったことから考えると、そのような評価が正しいように思える。

出家後の直実の法名は蓮生(れんしょう) と言った。
法然上人に師事して、浄土の教えを学んだ。

そんな蓮生には次のような話が残っている。
蓮生の老母が病気になった。
京都にいた蓮生は、老母を見舞うために故郷の武蔵国熊谷郷に帰る。

ところが、急に出発したもので旅の路銀に不自由をした。
老母への土産もない。
そこで、藤沢の宿で主人の藤屋平兵衛に 銭一貫文の借用を願い出た。
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しかし、宿の主人は、見ず知らずの人には質草がないと断わる。
直実 「では、その質草をお預けしよう。」
主人 「質草は何でございますか?」
直実 「私は旅の僧で、私の差し出せる質草は、念仏十篇ぐらいです。」
主人 「ご冗談は困ります。念仏などいくらいただいても質草にはなりません。」
直実 「いや、ともあれ、拙僧の念仏をお聞きくだされ・・・・・」

そう言って、蓮生は縁先で合掌し、力強い念仏を十篇称えた。
すると、庭前に、忽然として十茎の蓮華が生じたのである。

びっくりした主人は蓮生に銭十貫文を用立てた。
「お返しには及びません」と宿の主人は言ったが、蓮生は再び京都に上る時、平兵衛の宿に立ち寄り借金を返済した。
そして、質草の返却を求めた。
「どうしたら、質草を返せるのか?」と問う平兵衛に、今度は平兵衛が念仏を十篇称えよと言う。
言われた通り、平兵衛は十篇念仏を称えた。
すると、庭の十茎の蓮華がたちまちのうちに消えてしまったという。