横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

真珠湾攻撃

無一文になった私たちは、これから先ずどんな方法で行こうかと話し合っていた。その時、私たちの仲人だった野中のおじさんが、
「おれの杉を伐採せんか。代金は製品を売り上げた分だけ分納すればよかけん。」
と言ってくれた。

私たちにとってこの話は、“地獄で仏”のように有難く、嬉しかった。
「本当ですか。是非そうさせてください。これで助かります。」

私たちはこれに力を得て、早速、山の調査にかかった。この杉山はもっとも材質の良い木が育つ山で、私たちの工場から、五,六キロの所にあり、小山谷と呼ぶ地名だった。

先ず、山の調査をして、価格を取り決め、代金は後払いということで話は決まった。

この広川地区に育つ杉は、一般に成長が遅く、従って木目が詰まり、良質の建築用材として、珍重がられた。

私たちも出来るだけ注文を取り、有利に売り上げることに専念した。

こうして、最後には、山代金は勿論、金利に見合う分も合わせて、支払うことが出来た。

この山が終わった頃は、私たちも一息つけた。

その後、次々に少しずつ買った山も、順調に利益があり、我々の経済状態も、大分良くなっていった。

昭和十七年の十月に、次女美智子が生まれた。

昌三の運動会を見て、帰ってからだった。予定日はもう少し先だったと思う。

昌三は七つあがりで、一年生に上がる前年の運動会に参加したのだから、数えの六歳だった。他の子と一年違うので、可愛そうなほど小さくて、参加するだけでも良いと思っていたら、一番元気で、走るのも一番だった。

この頃、地元の松茸山を、山ごと買い取り、松茸狩りに、知人や取引先のお客などを招待して喜ばれた。

昭和十八年、十九年は、軍の命令で、主に軍用材を納めた。

山林の売買の方は、統制も公定価格もないのに、材木屋だけ価格を決められて、全く採算に合わなかった。

軍からの納入期限は厳しく、価格も厳しかった。一体に無理な注文が多かった。

例え儲かろうが、儲かるまいが、軍の注文に徹夜してでも、期日に間に合わせねばならず、製品となす用材がそろわぬ時は、引き合わぬ価格でも山主に相談して、売ってもらう交渉もした。

軍の将校が始終工場に、監督や激励に来ていて、さして利益もないのに、お茶だ、食事だと振舞っていた。勿論、この将校の人たちは、材木のことが分る人ではなかった。

軍からの感謝状は度々もらった。

銃後の産業にも種々あるが、吾々のように、半分奉仕的にやった者もいれば、軍需品の兵器類の製造や販売、軍用衣料会社など、笑いが止まらぬほど儲かった会社も数多かった。いわゆる戦争成金が、沢山できたのである。

軍用材を納入していたせいかも知れないが、夫は再招集を免れた。

復員して来た後、太平洋戦争にも、再招集された人は多かった。