横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

空襲を逃れて疎開先へ

昭和二十年の八月、突如詔勅が下がり、終戦を迎えた。

国民皆大きなショックを受けた。勿論、敗戦の悔しさはあったが、兎に角、戦争は終わったという、ほっとした気持ちもあった。

しかし、一方では、アメリカ兵が上陸して来て、女や子供はむごい目に遭うという噂も流れた。竹槍などを準備して、その日のための訓練も始終行われた。

結果としては、そんなことは何も起こらなかった。

戦時中は学童疎開や、田舎の親類、縁者を頼って疎開する人たちが多く、終戦後は猶更田舎に引き揚げる人達が多かった。

私の家にも、いくつかの家族が頼ってきた。どこも、子供が多く、食料もなく、金も乏しかったと思う。

私の従妹も八幡から、家族六人引き揚げてきた。皆、栄養失調気味で、殊に父親である従兄は、既に病身で、娘の一人も、胸を患っていた。近所の空き家を相談して借り受け、少々手を加え住まわせた。食料の調達にも気を使った。病人に必要な魚も卵もなかなか手に入らず、鶏を飼っている農家から、卵を少しずつ分けてもらうのが関の山だった。米を分けてもらうには、金では喜ばず、衣類など見繕って、交換したものだった。

従兄の次女は、病気がちだったが、大変美人だった。長女は既に他界していた。その娘も美人だった。引き揚げて来た年、次女美恵子は十七歳で他界した。

助からぬことはすでに本人も、知っていたらしく、死の際に、

「お母さん、天国とはどんなところでしょうね」
かすかな声で言った言葉を、私は生涯忘れられない。白蟻のように白く、清らかで世間の汚れを知らぬ娘の死は、神々しいほどだった。静かな死であった。

今は結核はほとんど治るが、当時は薬もなく、栄養を取ることもできなかったので、こういう死が沢山あった。

終戦の年、夫の戦友の西隈さんが、家族五人で大阪から引き揚げて来た。この人達も病人こそ居なかったが、体一つといたようなものだった。仕方なく、この人達の住む所を探して上げねばならなかった。私たちの仲人の野中さん宅の小屋が空いていることを思いつき、相談したところ聞き入れて下さったので、差し当たり大工を入れて、五人がどうにか住めるようにした。

私たちは従兄の家族にも、西隈さんにも、自分達で出来るだけのことはしてあげた。

終戦となり、我が家に出入りしていた兵隊さんたちも除隊となったが、都会の家は焼けているので、帰る家の無い人もあった。

源田少尉や、上田上等兵などは、仕方なく、私たちの工場で、働いてもらうことになった。主にトラックの運転である。

当時は木材の需要も増え、私達の工場も忙しくなった。女の事務員の馬場たみえさんも居た。この人は二年後、私達の世話で、日田の金川材木店に嫁いだ。

さて、私達の家も人の出入りが多く、食事時など、誰だかよく分からぬ人も食べていた。出来るだけ多くの人を、助けることが出来たのも、仕事が順調に行っていたからである。

夫は機械が大好きだから、いろいろ不思議なものをよく作った。

或る時、トレーラーを作った。これは山から長材を搬出するためで、自動車の運転台と長い車体を続かせており、電柱の八間物や、十間物など、山からこの車で工場まで運搬した。人々は珍しがって眺め、遠くから来ているのに、道をよけて待っていたりした。

今、こんなトレーラーは、珍しくもなく、何処にでもあるが、当時としては、見たこともない物だった。

少し後にジープも作った。ガソリンも配給だったので、薪の火力で動く木炭車だった。

その頃バスも作った。片側に五人ずつ掛けられる十人乗りだった。

ポンポンと音を立て、黒い煙を出して走るので、遠い所からも、その音が聞こえ、人々は野村のバスが走っていると噂した。

さて、私も一男三女の母親となり、生活にも多少はゆとりが出来てきた。

工場の空き地も広がったので、子供たちは土にまみれて伸び伸びと育っていった。

しかし、住いだけは手狭で、間に合わせの家だったので、荒削りの柱があったり、板張りも十分削ってないのが打ち付けてあったりした。台所の柱など上の方に、杉皮が多少残っていて、早く言えば、気の利いた小屋みたいなものだった。

昌三が五,六歳になると、その柱に登り、ナイフでその杉皮を削り落としていた。

「昌三、あんまり削ると、柱が倒れるよ。」

「柱が倒れたらどうなるの?」

「柱が倒れたら家が倒れるじゃあないの。」

これは、おばあちゃんと孫との会話である。

夫はどの子も大変可愛がった。夕方になり、仕事が終わると、どの子もよくおんぶされていた。

「お父さん、向こう向いて」

夫が背を向けると、後ろから背中に飛び掛かっておんぶされた。五,六歳になっても、このおんぶを四人とも楽しんだ。

夫は飛び掛かってきた子をおんぶして、ぶらぶら広い工場の空き地を歩き回っていた。

夫は写真の趣味もあり、高価なライカを持っていて、現像から焼き付けまで、全部自分でやるので、道具も一式揃えていたし、暗室も作っていた。

「今夜は現像するぞ。」

という日は、夕食もそこそこにし、私も手伝い、自分たちの写った写真の出来栄えを批評し合って、夜更かしすることも度々あった。

戦前の写真は、防空壕で駄目にして、戦後のものは水害に遭い、水浸しになったので、子供たちの育ちざかりの貴重な写真を失って、悔やまれてならない。

我が家には通勤の従業員の外に、住込みの氷室という男が居た。この人は、多少小児麻痺気味で、言葉もゆっくりしか話せず、片足を横に少し降るようにして歩いた。彼は手使いで小屋の方に、一人で住んでいた。

浩ちゃんという青年も住込みだった。この人は夫の従兄で、背の高い色白の、良い男だった。

それに、チビの俊ちゃんが居た。この子は同じ村だったので、通勤していたが、食事は家で三食食べていた。小六を卒業してきた子で、小さく痩せていて、リスのように身軽く、飛び回っていた。夫も、「俊、俊」といって、可愛がっていた。

秋になると薩摩芋を、何百キロと買ってきて、工場の空き地に穴を掘り、もみ殻の中に芋を積み込み、藁屑をかぶせて冬まで備えた。

蜜柑も収穫期にはトラックで買ってきて、これは杉の生葉の中に包みこみ、上から藁屑をかぶせた。こうして、保存すると、春まで新鮮さを失わず、甘みも増していた。

また工場の近くには、葡萄園や梨畑が沢山あり、果物には恵まれていた。

秋の終わりに収穫する梨に、三吉というのがある。大玉で保存がきくので、毎年百キロ、二百キロと買い込み、大きな甕(かめ)に保存した。

この甕の大きさは、高さ一メートル五,六十センチ、直径七十センチほどあり、梯子を使って、梨を出し入れした。

甕の底から、一尺位の所まで水を入れ、その上に気の蓋を水につからぬ程度に敷いた。蓋には直径二センチの穴を四,五センチ間隔にくり抜いていた。その蓋の上に梨を積み重ねてゆく。そして、甕の上部の口は密封しておく。

これは毎年、私の仕事だった。

この梨は、春四,五月頃取り出し、贈り物や見舞いなどにして喜ばれた。

冬は、工場の裏の空き地で、毎日朝から晩まで焚火が絶えなかった。

焚火の中に、藁屑の中から出してきた芋を、大かごいっぱい放り込み、工場の休憩時間には、皆で焚火を囲み、芋を食べながら談笑した。

この頃かった山林は、順調に利を生み、野村製材所も、少しずつ大きくなっていった。

蜜柑の時期には、蜜柑山に、友人、知人、銀行員や、学校の先生方を招待した。弁当は仕出し屋に注文し、時には芸者を連れて行き、山で酒宴を張った。また、松茸山を一山買い切り、日頃お世話になっている商売関係の人や、それ以外の関係の人々を招待して喜ばれた。これこそ、田舎の醍醐味で、都会では味わえない楽しみであった。