昭和二十五年の或る日、山の仲介人が、一つの大きな杉山を勧めに来た。
「こんな立派な木が、これだけまとまっている山はまたとなかですばい。是非見て下さらんか。」
仲介人あ、山の図面を見せたり、木数などを書き込んだ調査表を見せ、詳しく説明した。
「そんな大きな山は、うちくらいの小さな材木屋では手が出んばい。第一、金のもないし、貸し手もなか。」
夫は取り合わなかった。
「見るだけ見て下さらんか。無駄にはなりまっせんばい。」
「大分県なら、大きな材木屋が、いくらでもあるじゃあなかね。山吉、金又、権藤とかそうそうたる商店があるけん、そういう所に持って行きなさらんか。」
夫は面倒臭そうに、煙草をふかしていた。
「それはどの材木屋も、この山は皆、見て知っていますよ。大分県、殊に日田方面では、評判の山ですたい。」
「そんないい山を、どうして皆、買わぬのか。不思議じゃあなかね。」
「だから、大将、一度見てくれんですか。見ないと分らんでしょう。搬出の方法に、見当がつかずにいる所もあるらしいですたい。」
こういうやり取りを、仲介人が来て、何度も繰り返していた。
この仲介人は、松尾松蔵という人で、山林業、木材業界では、知らぬ人はないくらいの人物である。大分、熊本、宮崎を地盤に手広く、仲介網を張っているベテランである。
松尾氏は性懲りもなく、訪ねて来ては、しつこく言った。
夫もついに根負けして、兎に角見るだけでも見ようか、勉強にもなるだろうからということになり、正月の休みに、見に行くことになった。
その山は、大分県上津江村にあり、地名を早津山と言った。
県道から山道に入るところで、車を降り、山径を五キロほど歩いて登った。径は馬車が通れる所もあり、通れぬ所もあった。トラックの通れる径はわずかだった。
片側は山に沿い、片側は深い渓流に沿った径である。
「なるほど、この道では、出材はできない。道づくりが大変だ。」、と夫は言った。
私たちは二時間ほど歩き、目的の山に辿り着いた。山は話に聞いたとおり、見事な杉が麻柄のように、まっすぐに伸びて林立している。全山が電柱になるような杉で、八万本立っていると言う。面積は八十七町あり、実に壮観という外ない。
山に関心を持つものなら、一応惚れ込むに違いない。大分、福岡の材木屋は、大抵知っているらしいが、なぜ、今まで誰も手を付けなか着けなかったのだろう。それは、金額の大きいことと、出材についての難問が理由であろう。
片側の断崖に面したところの道路作りは、難問中の難問である。トラックの通る道を作らねば、出材の方法はないだろう。
私もこんな素晴らしい立木は見たことがなく、立木の生育ぶり、材質の良さ、八万本というまとまり、道路の外はすべて非の打ちどころがなかった。
私も少しは、山の見分け方くらい出来るようになっていたので、こんな山を手掛ければ、材木屋冥利に尽きるとさえ思った。
山代金は、土地共で五百五十万円ということだった。差し詰め、現在の価格に換算すれば、七・八億円という所だろうか。
勿論、私たちにそんな大金ができる筈もなかった。その後、早津山のことは、折に触れ話題に上った。また、仲介人も、時々やって来た。
「あの山、何とか買えぬものかなぁ。」
夫は、私に話し掛けるようになった。
「買いたくても、我々には手が出ないでしょう。金額は大きいし、遠方過ぎるし。。」
私は、夫が諦めるように言った。
「日田の山吉や、権藤も手を付けきらんからなぁ。」
夫はつぶやくように言っていた。
「皆、考えていることは同じでしょ。道路があれじゃぁね。」
私も相槌を打っていた。
「人が手を付けきらんから、割安で、面白味もあるもんね。」
と、夫は食指を動かしていた。兎に角、夫は、人のやれぬことをやるのが好きな性分である。この山も本気で関心を持つのは不思議ではなかった。
「私は、また、借金するのは、もうこりごりよ。それに少々の借金じゃぁなし、気の遠くなるような借金だから、勿論、貸し手もなかろうけど。」
夫と私はこんな会話を、折に触れては繰り返していた。
ある日、夫が私に言った。
「志乃、一つ当たってみるか?」
「何を当たってみるの?」
私は夫を見つめながら言った。嫌な予感がしたのである。
「銀行だ。」
「あの山のこと、まだ考えているの?本気で、本気で、考えているの?」
私は呆れたが、渋々相槌を打っていた。
「どうしてもやってみたい。かなり、借金せにゃぁならんが、あんたも承知してくれ。金策出来ねばそれまでだ。」
夫はいよいよ積極的に動き出す考えだった。
この人が一旦決めたら、簡単に方針を変える人じゃあないことも私は知っていた。
伸るか反るかとは、このことで、大きな賭けである。今のまま大きなことをせず、地道に商売していれば、大した心配もないのに、やはり、苦労は自分から作るものかと私は思った。
それだけの価値ある山を、買うのだから、損することはないと考える。しかし、山には思いもかけぬ手違いや、災難が起きたりもする。
また、搬出が長期にわたれば、金利だった馬鹿にならない。しかし、どうせ金策はできぬに決まっているのだから、今、心配せんでもと、私は高をくくっていた。
兎に角、二人は若かった。
夫は三十九歳、私は三十二歳。伸るか反るかの事に、着手しようとしているのに、夫はただ、意気に燃えていた。
先ず、自分たちで、どれくらいの金策が出来るか、やってみようということになった。
手始めに私名義で持っていた辺春(へばる)山を売却して、三十六万円が出来た。それから、これも私名義の久留米市日吉町の宅地百坪を百万円で売却した。
この土地を売った時が面白かった。代金を受け取るため、久留米市の旅館で待っていたら、当時一万円札はなかったので、百円札で現金百万円を買主は持ってきた。百円札の束を大風呂敷に包み、やっと担ぐようにして、持ってきて、私の前にどさっと置いた。
「こら、百万円です。調べて受け取ってください。」
私は小切手を持って来られると思っていたので、魂消(たまげ)てしまい、
「これを数えていたら日が暮れますよ。銀行で受け取ります。一緒に来てください。」
と促した。それから、銀行で計算してもらい、受け取った。
土地の売却代や、製品売却、手持ち金などを集め、二百万円位はできたと思う。
さて今後は、銀行に借金するしかない。
私たちが直接大金を借りに行っても、相手にされぬに決まっているから、だれか有力な人に頼まねばということで、福岡銀行の羽犬塚支店の下川支店長に話し、本店の貸し付けに話を通して欲しいと頼んだ。
二百五十万円の借用を頼んだ。
支店長は驚いて、
「そんな大金は、私が頼んでも駄目と決まっていますよ。」、とてんで受け付けてはくれなかった。
「支店長さん、そんなことは言わないで、一度本店に当たってみてください。」
詳しく山の説明をして、夫は強引に頼んだことと思う。
支店長も腹を決めて、
「駄目の方が強いと思いますが、一応話すだけ話してみましょう。しかし、当てにせんで下さい。野村さん、あんたも、大きなことを考える人じゃ。兎に角、当てにせんで下さい。」、と念を押しながら、渋々受けてくれた。
この下川支店長は人望の厚い人で、実直な五十歳くらいの人である。ガッチリした体格の赤ら顔をしていた。
我が家の取引銀行でもあった。
支店長に頼み、一ヶ月ほど経ったが、本店からの返事はもらえなかった。
その間、野中茂さんが応援してくださり、野中さんの知人の有力な方にも頼んでもらい、側面より銀行に働きかけて下さった。
そうこうして、二ヵ月ほど過ぎた頃、本店から、山の調査に上がるという通知が来た。
調査の日時は銀行と打ち合わせて決まった。
当日は福岡銀行本店から、貸付主任の佐藤與氏と部下二人、下川支店長、野中茂氏、山の案内人と夫と私の計八人だった。
佐藤氏は福岡銀行の重役だった。
当日私は八人の弁当を用意して、付き添った。車の行けるところまで車で行き、それから一時間半ばかり歩いた。
目的の山は、山裾から、頂上まで登るのに、一時間くらいを要し、周囲を一回りすれば、一日位かかるほどの広さだから、全部を詳細に見て回ることは到底できない。
佐藤重役も、下川支店長も、立木の壮観なのには共鳴され、石数も調書に提示してある通り、十分あることが認められた。
銀行の返事は分からぬけれど、こちらの話が間違いでないことは、認めてもらったわけである。銀行の方も、その後、重役会議を開いて、検討されたと聞いた。
「あんな若い者に、大金を貸して、大丈夫ですか?材木屋のベテランでさえ、手を付けないのに。まだ、経験の浅い若者ではだめですよ。怖いもの知らずですよ。」
重役たちは、思い思いの意見を述べ、まとまらなかったそうである。
その間、銀行には側面からも応援してもらった。
「二百五十万円貸しましょう。」
この返事を銀行からもらったのは、山見に行ってから、一ヵ月余りたってからだった。
「ああ、あの山が買える。」、と感激し、大いなる希望を持った半面、ずしんとのしかかってくる不安もあった。
どうしたら、あの出材が、うまくいくか?
それには、先ず、道路作りだが、難所の多い径を、どうやって切り開いていくか?
兎に角、第一の関門は通った。
いよいよ銀行から二百五十万円を借用することが出来た。担保はこれから買い取る早津山である。それと同時に西牟田の福銀支店長の増永さんからも六十万円借用した。
山代金のうち、百万円は延払いとした。最初四百万円を入れて、売買契約書を済ました。
当面必要な運転資金を百五十万円ほど手元に確保したわけである。
「よくもあんな大金を、銀行は野村に貸したもんだ。野村もよく借りたもんだ。」、と口々に世間の人々は噂した。
私たち夫婦は、恐らく自分たちの一生の大事業になるだろう事業に取り掛かる前の緊張感と希望にあふれていた。
先ず、第一に、道路を整備せねば、つまり、トラックを通さねばならぬので、三キロほどの道幅を広げる必要がある。
道路を拡げると言っても、径沿いの山には、それぞれ持ち主があるし、許可を取らねばできない。もちろん、トラックの通る道が出来ることは自分の山の値打ちも上がることになるので、反対する人はなかったが、土地を道に潰すので、どこも代償は要求した。
本当は無償でも良いはずなのに、こちらの足元を見て、交渉は手間取った。
片側は川に沿い、十数メートル下に水が流れ、水深が数メートルある所もあった。津江川である。そんなところにかぎって、径幅が狭く、岩石で、工事は難航した。
私は或る日、山に登るトラックの助手席に初めて乗った。
途中、車が徐行するので、窓から下をそっと見た。その瞬間、私は息をのみ、心臓の止まる思いがした。
車のタイヤは、山側は径いっぱいのすれすれを通り、川側は、タイヤが川の上に、少しはみ出し(多分一センチ位)、少しでもタイヤがずれたら、車は川に転落し、先ず助かる見込みはない。
そこを通り過ぎて、運転手の顔を見たら、この数秒の間に、私が何を見、何を考えたかを読み取ったかのように、運転手の博ちゃんは、日焼けした顔に、白い歯を見せてニヤニヤと笑った。
博ちゃんは夫の甥で、運転の方は大ベテランだった。十八歳位だった。
彼は堂々たる体をしていて、歌舞伎役者のような顔立ちをした美青年だった。
「こんな危険なところを通っていたら、命はいくつあっても足りないじゃあないの。万一の事があったらどうするんだろう。道の広がるまで、車を通すことをやめねば。」、と私は運転手に言い、山に着くなり、同じことを夫に言った。
「分かってるよ。焦ってるけど、片側の山主がぐずぐず言って返事せぬので。今少しの辛抱だ。」、と舌打ちしながら夫は言った。
山主もずるいから、自分の山を道に提供せねば、相手が困ることを見越して、少しでも代償を高く取ろうという腹である。
「そしたら、道の拡がるまで、車を止めねば、死人でも出たら一大事でしょうが。」
「それが出来れば、悩むことはないが、少しでも資材を運ばねば。それに食料もね。」、と夫は仕事の手を休めず言った。
そんな状態が一ヵ月余り続いた。その間、私も止むを得ず、この助手席に何度か乗った。
「博ちゃん、例の所一気にすっと、とばさにゃあ、駄目よ。あそこで息したら、ことじゃけんね。」
「勿論、分かってる。あすこは“コツ”じゃけんね。」、と博ちゃんは、頼もしく胸を張った。一気に難所を通り抜けて、二人は顔を見合わせてニヤッと笑った。
この場面を母にでも見せたら、気が狂いそうになるだろう。幼い子が四人もいるのに、この母親は失格かも知れないと思った。
やがて、、道も拡がり、その難所はどうにか解決がついた。
山の伐採はもう大分進んでいた。
山の中央を川が流れており、かなりの水量があったので、この水力を利用して、動力を起こし、製材することにした。
製材工場を山裾に作った。タービンを利用して、水力で電気を起こし、製材機を動かすのである。丸鋸の大台を三大据え付けた。設計も機械の据え付けも夫が自分で総てをやるのである。
他に行員宿泊所一棟、事務所を一棟建てた。炊事係を夫婦の人に任せ、食事、宿泊のこと一切引き受けてもらった。
伐採する人、製材関係の人、自動車関係、道づくりなどで、総勢五,六十人にもなり、多い時は七,八十人くらい、この山に働いていた。
その殆どが泊まり込みである。
山の中腹にも、小屋を二、三カ所作り、伐採の人達は、この小屋に寝泊まりし、炊事も自分達でしていた。
電気は水力の自家発電で、山裾から山の中腹まで、灯りがともり、一寸した村落を思わせた。闇の中に、この電燈の点滅を見ていると、山の中の温泉にでも来ているような気分になり、その景観は素晴らしかった。
事務所の半分は川の上に建っていた。私達はその事務所の方に泊まっていたので、夜は川の流れの音で、なかなか寝付かれなかった。大雨でも降ると、大きな石が、ゴロゴロと物凄い音を立てて枕の下を流れた。
ある夏の日、大豪雨があった。
この山の中には、大きな谷がいくつもあり、その谷が大きくなり、驚くほどの水量が、白馬の駆けるように流れて行く。また、岩もゴロゴロと雷のような音をたてて流れていくさまは壮絶であった。杉の立木も根ごと倒れて流れた。
長い材木は途中水をせき止め、水位がドンドン山の上の方に上がっていくのが見えた。私達は、山小屋に逃れたが、ここも危なくなり、雨の中を頂上に向かって這い進んだ。
翌朝、陽の光を見た時は、前日の豪雨は嘘のように思われ、生きていたという喜びに涙があふれた。