横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

シズエ姉の結婚式は私が幼稚園児の時だろうか?
昔の家の応接間でやったことをかすかに覚えている。
結婚式の意味などわからない私は、泣いているシズエ姉を見て、『可哀想な姉ちゃん。姉ちゃんはもらわれて行くんだ。あの男が人さらいなんだ!この野郎!』と密かに感じていた。

その後、杉山徹次郎さんとシズエ姉が我が家を訪れた際もしばらく、『あいつは悪いやつなんだ!』と思っていた。

シズエ姉の結婚式の一年後は、啓一兄の結婚式。
この結婚式はどこで行われたかは私の記憶にない。
ただ、お嫁さんが現れた時は、『綺麗なお嫁さんだ!』と密かに思った。
幼い私は、この時、啓一兄のことを”人さらい”とは思わなかった。
今思えば不見識だとしか思えない。
あるいは、それが一年の成長かもしれない。
ただ、正直いうと、「尼子里江?変な名前」と感じていたのは覚えている。
中学時代に出雲の尼子一族は、京極氏の一族で代々出雲守護代を務めたことを知った時、私は一種特別の思いを感じた。
なぜなら、尼子一族は毛利に攻められ、羽柴秀吉救出に向かうが、残念ながら毛利三万の大軍に包囲されてしまい陥落したのだ。オーマイゴッド!!

3人目の結婚式は秀夫兄だったと思う。
その時、我が家は親父が下関機関区の助役に出世し、下関の国鉄官舎で生活していた。
多分、私は小学三年生くらいだったと思う。
結婚式は多分小倉で行われたのではなかろうか?
私は結婚式には出席せず。
久夫兄から、厳しく、
「みんなが帰る頃には風呂を焚いておけ」、と言われ、一人家に居残りしたことを覚えている。

その後、キヌエ姉の結婚式も不参加。

私が結婚式に初めて出席したのは、私が大学2年の時の久夫兄の結婚式。
結婚相手は、何と私の小学6年生の同じクラスの安部節子だった。
これには驚いた。オーマイゴッド!!が再び登場。

次に出席したのはかずえ姉。
ひょっとすると久夫兄と順番は違っているかも知れないが、これはお許し願いたい。
別に歴史の年代を語っている訳ではないので。

かくして、私は兄姉の結婚式にはほとんど出席していないのだ。
これでは正式に義理兄姉の契りを結んだことにはなっていない。
でも、昭和のどさくさの時代。
生きることが精一杯のこの時代ゆえ、全てを許そう。

あらためて、この場を借りて、義理兄姉の皆さんに宣言する。
我々は苦境を共にした戦友。
すでに3名(ひょっとすると4名かも知れない)戦友を無くしたが、残る戦友に告ぐ。
皆さん、色々、お世話になりました。
かくして、私は皆様と楽しい時を過ごすことができました。
熱く熱く、御礼申し上げます。

阿弥陀様からの召集がかかるまでは、楽しく、生きてください。
皆さんの魂の一部は確かに私の心の一部になっていることをお忘れなく。