横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

私はみかんがなぜか好きなのだ。
年の暮れにはみかんを箱単位で買うととても満足感を得られる。

私が小学校2年生の時、親父の仕事の関係で下関に移る。
家族は久夫兄とかずえ兄と私と親父お袋で五人家族となった。
下関は厚狭と違い都会であった。
私は田舎者から一気に町の人間に大転換したのだ、表面的に。

少し歩けば、多くの店が並ぶ市場があり、魚や野菜やお菓子などなんでもそろう。
特に下関は漁港ゆえ、クジラ肉やフグなども簡単に買える。
フグはドンブクと言って毒性もあまりなく、我が家でも刺身でよく食べていた。

年の暮れになるとその市場も一段と慌ただしくなる。
多分、お袋にとっても、このころが人生の中で、最も楽しい時期だったことと思う。

思い出すに、下関に来て3年目の暮れのことだったと思う。
私が小学校4年の時だった。
私はなぜかその時のことが忘れられないので、ここに書くことにした。

ある日の夕方、我が家には、なぜか私とお袋がいた。
私は真剣にみかんを食べている。
その様を見てお袋が私につぶやくのだ。
「兄ちゃんや姉ちゃん達は小学校と中学校の頃はとても頭が良くて、成績はいつもトップクラスだった。おかげで兄ちゃんは山銀(山口銀行)に入れたし、ひどおちゃん(秀夫兄)も八幡製鉄に入れた。心配なのは、お前のことだけ・・・」

私は、その話には特に何も答えず、ひたすら、みかんを食べていた。

お袋は続ける。
「勉強して成績が良かったから、兄ちゃんはきれいなお嫁さんをもらった。お前の所に綺麗なお嫁さんが来てくれるだろうか?」

私はこの一言に反応した。
「えーツ!勉強したら綺麗なお嫁さんが来てくれる?そうか、そういうことなんだ!」
しかし、そのことについて何も口にせず、私は黙々とみかんを食べていた。
この時に、勉強する意味をぼんやり私は悟ったのだ。

じゃあ、翌日から勉強を始めようと思うほど子供の心は簡単ではない。
正月が終わり、三学期が始まっても私の怠惰な生活が何も変わることはなかった。

お袋もあまり私が変わるだろうと期待していたようではなかった。

しかし、私の頭に植えられた種は確かに育ち始めていた。
それが芽を出すためにはもう一つ必要だったのだ。
勉強をする方法がわからなかったのだ。

小学校6年の時に、親父の仕事の関係で厚狭に戻ることになった。
下関から来たというので、私はクラスの中で、少しは話題になったが、残念ながら宿題はしないし、忘れ物はする駄目な生徒の評価しか与えられてなかったからクラスの中ではただの生徒にしか過ぎなかった。

でも救世主がそこにいたのだ。
横川という優等生と他に二人の友達。
この横川は将来東大に入った男であり、クラスの中では特別な存在だった。
彼らは学校帰りに図書館に必ず寄っていた。
ある日、私も図書館に付いて行ってみた。
彼らは次に習う授業の予習を図書館でやっていたのだ。
初めは、私はやり方がわからなかったが、少しずつ、みんなの話題についていけるようになっていった。
ここからが私の出発点なのだ。
そして、ある時、私は福沢諭吉の伝記を見つけたのだ。
200ページ以上あったのだろう。
私は次第に福沢諭吉の生き方を自分なりに理解するようになっていった。
そして、福沢諭吉のある言葉を発見したのだ。

【天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず】

この言葉は偶然、私の古い家の仏壇の横の柱に掛けてあったから、私は驚いた。
あれは福沢諭吉の言葉だったんだ。
我が家の誰かも、この言葉に感銘を受けたのだ。
そして、私は、100年前の福沢諭吉が船でアメリカに行ったのだから、今の自分に行けないはずはないと悟り、別の種が脳に植えつけられた。
そして、ここから本当の勉強が始まったのだ。

その後、私の頭には多くの種が植えつけられたいった。
それらは、しっかりと根を張り、新芽を出し始めていくのだ。

人間の人生は偶然に頭に植えつけられる種で、何にでも生まれ変われるという確信は、その後の人生に私の指針となってきたし、これからも新しい種を求めているのだ。