横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

佐藤一夫とユリの間に生まれた三男坊。この男の存在を甥や姪の皆さんは知っていますか?多分、親からは聞かされていないかも知れません。
なぜ、聞かされていなかったのかは、別の機会に話しますが、ここでは、どんな人だったのかを紹介しましょう。
私が幼かった時の文夫君のことは当然わかりませんので、その辺りのことは、私の聞いた範囲内で記述いたします。

 

この人は残念ながら学力優秀及び品行方正の兄姉の中で育っってしまったのが不幸の始まりか?
勉強は嫌い。
品行も良くなかったために彼は次第に兄弟の中で疎外感を抱くようになっていってしまった。残念ながら。

高校生になった次男の秀夫君は通学用に自転車を買ってもらった。
秀夫君はこの自転車をいつも磨き、大事にしていた。
ところが、中学生だった文夫君は、しばしば、この自転車を秀夫君の了解も得ず、勝手に乗り回し、汚れたまま放置していた。

日頃から、耐えていた秀夫君は、ある日、烈火のごとく、文夫君を怒鳴り、殴りつけたのだ。
殴られた文夫君は、刃物を持ち出し大喧嘩。
幸い、この喧嘩で両者に大きな怪我は起きなかった。
しかし、怪我以上に、二人の仲には大きな溝ができてしまった。

文夫君は、家出を考えていたと言う。文夫君が中学生二年の頃のこと。

そして、いよいよ家出を決行するのだ。
文夫君は一応高校受験はしたものの、受験発表の早朝に家を飛び出し、厚狭駅から汽車に乗る。
何度か乗り継いで、東京まで行ったと言う。
当然、無賃乗車。
東京駅の丸の内側に降りてビックリ。
見たこともない高いビルがそびえていたのだ。
ポケットには五円しか持っていなかったと言う。
その五円でパンを買い、公園で食べたと言う。

1955年の丸の内

しかし、東京が怖くなり、再び、汽車に乗って厚狭に帰る。
当然、帰って来た文夫君は、親父にぶん殴られたという。
当時のことを本人に聞いても、文夫君は多くを語らない。
語らなくないというのだ。
私が思うに、この当時の文夫君の行動には理屈とか考えとかはなく、ガムシャラに抵抗していたのだろう。

当然、家に帰っても兄姉から白い目で見られている気がして、直ぐにでも、家を飛び出したかったと本人は言っていた。

寝太郎像