私が中学三年生の時の話。親父は国鉄を退職して2年目のことだったと思う。
私の通う厚狭中学校の運動会での出来事。
今では中学校の運動会は危険のないように。あるいは、食中毒のないように。あるいは、怪しい人間が構内に入ってこないように・・・、と学校側がいろいろ気を使い、運動会そのものが実につまらなくなっている。
私の通った1964年は、戦後からの復興のため、日夜働いていた多くの人々が少し余裕が出てきて、人生を楽しもうと思う時代に入った頃だった。だからこそ、子供の運動会は家族の娯楽の中心だったかもしれない。
朝早くから運動場の場所取りを行い、弁当を作り、親子でその弁当をつつく。果物は梨、ぶどう、柿など。そこでは、親同士も田舎ゆえ顔なじみが多い。
私の親父は、息子がお世話になっていると言う思いからであろう。父兄会(今で言う父母会)の会長を務めていたようで、しばしば、私の中学校を訪れていた。
午後に入り、運動会も佳境に入ると、父兄会のリレーが始まると言う。私は何気なく、その選手達の入場を見ると、そこに私の親父がいるではないか!
親父は、あまり走るのは得意ではないと言っていたのに。また、年齢も間もなく60歳というのに。その親父は、ステテコで出場してきたのだ。
日頃から走る生活は全くしていなかった。
しかし、ここで親父の人生哲学が出てきたのであろう。父兄会の会長の父に周りは、是非、リレーの選手として走っていただけないでしょうか、と頼んだのだ。人から頼まれたら、よっぽどのことがない限り、受けてやれ、と言うのが親父の哲学なのだ。その場合、なりふり構わず、結果も構わず、恥も厭わずである。
私は、この時初めて、親父の生き様を見た感じがした。親父は、半周を走ったのだが、コーナーの所で、足がもつれて、転けてしまった。ステテコは汚れ、破れたが、再び立ち上がりバトンを持ってゴールしたのだ。ゴールの後、心配で駆け寄って見ると、膝から血が流れていた。
この時、私は初めて、親父のすごさを知った。
そして、この時、親父のように生きようと決意したのだ。