横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

国境を無事越えることに成功した父は、五年間にかなりの金額を送金したという。

勿論借金は、早く返済したらしい。

やがて5年も経過した頃、

「五年経ったから、帰国の準備をする」

という手紙が来たので、留守宅では喜びにわいていた。

しかい、それ以来、父からの便りは、暫く途絶え、友人から届いた手紙で、病気していることが分かった。それから間もなく、危篤の電報が届き、重ねて死亡の電報が届いた。

死因は急性脳膜炎だったそうである。

こうして帰国を目前にして、妻子に会う事も出来ず、異国で帰らぬ人となった。死亡した病院はロスアンゼルスで、友人に看取られて逝ったとのことである。

朝早くから親戚の人達や、近所の人達が大勢私の家に集まって 来た。吉常のおじいさんや叔母たちは、前日から泊まっていた。

私もその日は大好きな、友禅の花柄の着物を着せてもらい、帯も華やかに絞り染めにしたのをしめて、得意だった。私は嬉しくて、一人ではしゃいでいた。

「この子は何も知らないで、人が多いものだからこんなに喜んでいる。」

と私を見て誰かが言った。

「志乃、今日はあんまり騒いじゃあいけんぞ、お父ちゃんのお弔いじゃけん」

おじいちゃんは、優しく志乃を抱き寄せながら言った。

やがて、お坊さんが来てお経が始まった。集まってきた人たちは、それぞれお線香をあげて拝んだ。母は髪の毛を切って、それを白紙に包んで仏前に供えていた。

これは私が五歳の時の唯一の記憶である。