日清・日露戦争の余勢をかってドイツと一戦を交えたが、一方、経済状況が奮わず、緊縮財政が続き、モラトリアム等の施策がとられたのもこの当時だった。
従って、鉄道も人員整理、列車本数削減、単位列車の車両数減の対策が打たれていった。
スピードアップで機関士の昇進の見込みなく、機関士科の教習所も一時閉鎖となり、試験制度も中止されてしまった。遊べ、遊べで17・8才の大事な青春時代を無駄に送ってしまった。
世間は不景気でも、45円の月給取りは相当モテた。親父にも毎月20円やるのでホクホク。現金買の余裕ができて家具調度品を集めるようになり、今でも応接台を見ると当時を思い出す。
俺の靴の裏革を打つようになり、親父が悪い裏革を打たれた失敗をしたことがある。
頼みもしないのに、親父がこんなことをしたのは機嫌取りもあろうが、俺の家庭には革靴を履く勤め人がいるぞと、一寸、威張って見たかったのではないかと俺は失笑をしたことを覚えている。
こんな時代が5・6年経つと今度は嫁取り、みんなにおだてられ、いい気になって暗中模索。
自分には貰う気が無いのに、あれこれの話があった。
当時、親父は部落総代をやっていたが、狭い家だが、部落の総会(飲み会)を引き受け、村の芸者を自分の費用で呼び入れたこともあった。
自分の本意でも無いのに、高い線香代を払う気持ちは、親父の性格の一面とうかがえる。
その内、昭和5年の11月、山陰線が須佐まで開通と共に、機関士見習いの作花(さっか)と二人で下関機関区に転勤。
そこで初めて新所帯を持った。
新婚2年目、月20円渡していた親の生活資金を5円に下げたが、弟らも金儲けをするようになり、なんとかやれるようになった。
抵当物件で、森岡為次から貰った古家二階建てを使い、自分の納屋の裏に二階建てとして増築したり、前側にあった湯殿を裏の廊下伝いで行けるように改造したのも金に余裕ができた証拠だと推定される。
俺の方は逆に、判人試験に合格。上司と交際するに伴い飲む機会も増え、時々、金策で家へ帰ると、こんなことを親父が言った。
「蓮台寺の牛蒡(ゴボウ)売りは、金を持っているが、靴を履いて金儲けをするように指導した俺にも責任がある。」と金のない中、俺に融通してくれたことを思い出す。
判人官の襟章をつけて帰ると、「お前、判任官になったそうな。関さんに聞いたが、よくやった」と親父は喜んでくれた。
事実、現場、機関士で任官しているのは機関士80人中2人だった。
ところが、喜んでくれたその親父は、遂に還暦の祝いを済ますと他界してしまった。
南無阿弥陀仏
合掌
注)はんにんかん【判任官】
旧官吏制度における官吏の等級の一。各省大臣・地方長官などの権限で任用された。