横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

大正10年の春、高等小学校を卒業した。
今頃風に言うと、満14歳の春で中学校3年生になったばかりである。
当時、中学校(今の高校)へ進学するものは裕福な家庭の子供ばかりでクラスで2割もなかった。
また、高等小学校も義務教育ではなく、尋常科6年で卒業したものも大分あった。
これから考えると、貧乏はしながらも、月25銭の授業料で高等科に2年通ったのだから、親父としても相当な投資だった。

考えてみると、俺に相当の期待をかけていることも、子供ながらおよそ分かった。
これに応えるためにも、相当の覚悟が必要であった。
では、何をやるべきかを考えてみると、学校へ行く時代は、操行:“乙”(甲・乙・丙の三段階評価の二番目)。
父兄会の時など、「勉強の方は文句ないが、お行儀が何とも悪い」と毎度のように先生から言われたそうな。
事実、悪かった。山川や松岳畑の人は、俺のことを“要注意人物”として、毛嫌いし、「あれと遊ぶな」と言われたかとも想像する。
一例を挙げると、喧嘩早くて、ある時、雨降りの学校帰り道、一級上の田辺善男と口論の末、和傘の頭で鼻柱を殴り、コブを作った。
これを見た姉が家に帰って親に報告しようと思うが、親に告げようものなら大変。姉が殴られるので、俺の寝静まるのを待って、親に話した。それを聞いた親父は、「それ、一大事!」と夜遅く400メートルの山坂道を提灯をつけて謝罪に出かけたとのこと。
叱られることは再三なので、後で怒られたかどうかは覚えていないが、事実左様に親父やお袋、また、近所の人も手を焼いていた様子が窺える。

それが、学校を出たその時から、別人のように、ここを一大転機として、心機一転したことは、思春期の思い出として心に残っている。

またそうしたことが、社会人として今日をあらしめたような気がする。
今では、親の家庭教育、指導力の偉大さを思い起こし、ありがたいことと手を合わせる。

俺は卒業後、何を考えたか今もその当時のことを思い出す。
東京に出て苦学をするか、それとも、親の後を継いで百姓をするか、はたまた、会社勤務か月給取りか、親父に相談したが、親父の希望は大工職人であった。大工職は好きだが、道具箱を担いで人に雇われることは自分の性に合わなかった。
しかし、現実は貧乏であり、働いて銭儲けが先決であり、親父もまたこれを切実に希望していることは窺えた。

そこで、卒業するや朝早くから働いた。
当時、寺の下で炭を焼いていたので朝食が済むなり、炭木切り。
切手は窯に運ぶ作業に取組み、親父を追いまくるようにして、仕事を片付けた。
また、当時、お寺の本堂改修があり、材木運搬の荷役があり、村長、田辺、前田と俺の4人で組んで幾らかの労賃を得た。

そのうち、農繁期になったが、これも率先して仕事を片付けるように働き、黒砂糖をかじりながら働いたことを思い出す。
田の草取りの合間、夏の炎天下、山を上り下りして気の切り出しに従事し、幾らかの労賃を得たが、親にそれを渡したところ、押しいただいて神棚へ備えるほど金のありがたみを感謝する状態であった。

俺があまり一生懸命働くのでその気分を損なわぬようと気の配り様も相当なものであったと思い出される。

8月に入ると、7日の墓掃除、10日の寺事、15・16日の盆には浴衣を一枚とモス(木綿の薄手)のへこ帯で青年仲間に伍し、ようやく、子供とは違った待遇をしてくれたことを思い出す。

そして、秋、親父と合意の末、大工職の弟子入りとなるが、よくもこんなどーかん坊主が親の意に任せ孝行息子に転向したものだと自分ながら感心した。

精気溌剌、やる気タップリの青年時代に、昼は生産性向上に懸命となり、夜は青年学校に一里の山道を通い、模範青年と言われたほどで、鉄道に入ってからも、昇進・昇給も抜群だったことなど、子供の頃の悪評は一挙に払拭。

こうした転機になったこと青春時代の親の指導が良かったこと、また、これに従順にしたがって、思春期の転向が果たせたことに感謝したい。

このことで俺の一生が好転したことに感謝し、静かに合掌する。

一夫

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