横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

早津山を売却して、暫く仕事を離れ、のんびりしようと話していたが、仲介人は始終出入りして、山を勧めに来た。

「野村さん、あんたはこれから遊びなさい。毎日奥さんから小遣銭をもろうて、パチンコもして遊びなさい。あんたが遊びさえすれば、財産は増えるばかりじゃけん。」

友人の永野さんは、夫が山に手を出さず、遊ぶことをしきりに勧めらえた。

勿論、長野さんの言われる「遊べ」というのは、大きなことをせず、遊び半分のようなことをやれという意味である。

事業欲の強い夫は、遊んでいるはずもなく、熊本県球磨郡一勝地に、一つの杉山を買った。二十七年の事である。

この一勝地の山は、長いこと係争中の山だった。

「そんな裁判の山に、手を出すことは、みすみす損をするようなものじゃあないの。」、と私は強く反対していたが、それも押し切って、買ってしまった。私の手の届かぬところで、取り決められた。

この山は、最初は、熊本県佐敷市の篠原という人の持ち山で、篠原氏は戦前に、この山を鹿児島市の製薬会社貴仙堂に三百万円で売却した。手付金を百万円受け取っていた。

貴仙堂は、ドラミンという心臓の薬を創出し、広く売りさばいていたので、会社自体をドラミンという称号で呼んでいた。

さて、戦争が始まったので山代の残金をドラミンは払えなくなり、九十万円の保険証書を篠原氏に渡していたと言う。この保険は満期になれば、全額受け取れる保険だったということである。

やがて、終戦を迎え、世の中も段々落ち着きを取り戻してきたので、ドラミンは篠原氏に、一勝地の残金を支払うので、登記するよう要求した。しかし、篠原氏は、これに応じなかった。勿論、残金の支払い期日は、早くに過ぎていたと思われる。

双方、数度にわたり、交渉があったと思われるが、まとまらず、従って、ドラミンは山を仮処分した。

篠原氏は、この山の総てを、石原弁護士に一任していたそうである。

ここで、篠原氏のことに少し触れてみよう。

この人は、熊本県佐敷市の旧家で、住いは佐敷市より、かなり奥に入った田舎にあり、馬車に乗って行っていたそうである。

彼は、佐敷市の銀行の頭取をしていたので、熊本市にはいつも来ていたらしい。それで、熊本市にも、住いを持っており、第二夫人も居たらしい。

夫がこの山を買ったのは。松尾松蔵氏の勧めによるものであり。石原弁護士から、買い受けていた。山代金は六百五十万円で契約し、全額を支払い登記していた。

ドラミンは、この山を仮処分しているし、現在裁判している山の事とて、夫の買取に大変立腹し、人を介して来て、

「どういうつもりで買ったのか、山代金千五百万円持ってこい。そしたら、仮処分は解いてやる」、と吹っかけてきた。

「ドラミンは、百万円しか払っていないのに、最初に売買契約はしていても、既に支払期日はとうに切れているではないか。」、と夫は突き返した。

この山の立木は杉のみで、一勝地村に半分、上の瀬村に半分ずつ、またがっていた。樹齢四・五十年の大変見事な杉山だったので、夫は伐採して搬出する予定だった。

さて、ドラミンの社長は、戦後死亡していて、その妻のノブという人が、社長となっていた。ノブには子供が五人いたが、皆、まだ幼かった。死亡した社長の弟に、田代万二という人が居り、社長の片腕となり、ドラミンに働いていた。田代氏は奥さんと養子関係で、奥さんの方の姓を、名乗っていたようである。

また、ドラミンの番頭に、柳田という人物がいた。社長死亡後は、社長夫人ノブと、ただならぬ仲になっていたと言う。

さて、こうなると柳田にとって、社長のノブは自分の思うようになるが、田代が邪魔でならない。どうしても、自分が社長の実権を握りたい一心から、田代を陥れるために田代の有ること無いことをでっち上げ、古賀という刑事に言い含めていた。

よって、田代は故もなく、警察に引っ張られる羽目となり、留置場に入れられた。

そうして、ドラミンの総実権を、柳田が握ったのである。

田代は、鹿児島の松村弁護士に依頼し、柳田も別の弁護士を立てて争った。

ところが、夫は、登記はしたが、仮処分がついているので、伐採はできず、それで柳田に仮処分を解くように、いろんな方法で交渉してきたが、聞き入れられぬまま、日は過ぎて行った。

夫が、遠方に山を買えば、泊まり込みが多くなり、時たまにしか帰らなかった。特に、裁判しているので、日田には帰らず、熊本にいる時もあり、都城にいる時もあり、または鹿児島から電話があり、金を振り込んでほしいと言うことも始終だった。

このような裁判沙汰に関わることは、私は大嫌いだったので、強く反対もした。しかし、山男は、良い山、良い木を見ると、魅せられて、どうしても手掛けたいと思うらしい。

さて、貴仙堂の社長ノブは、社長と言っても名ばかりで、お脳の方は弱かったらしく、柳田の言うなりになっていたらしい。

柳田はノブと子供達を、寒中、風呂場に閉じ込めたり、学校にもやらず、食事もまともなものはやらず、虐待していたと言う。

田代は、柳田の子供に対する仕打ちを盾に取り、松村弁護士に依頼して、ノブと柳田は、子供達の後見人の資格なし、という裁判を起こした。しかし、田代に裁判の費用はあるはずもなく、従って、夫がこの裁判の費用を出した訳である。この裁判に田代が勝てば、田代が当然ドラミンの後見人となり、一勝地山の仮処分を解き、伐採できることになるのを夫は希望をかけていた訳である。

松村弁護士は、田代の勝訴を見込んで、引き受けられたそうである。

最初の山主である篠原は、ドラミンから残金が支払われぬため、別人に同じ山を売り渡してもいた。そのためにその飼い主も、日田市の中川弁護士を立てて、篠原氏と長期にわたり争っていた。

どの弁護士も、遠方での裁判の場合は、酒、おんな、宿泊費と金がかかり、費用が馬鹿にならない。裁判が長引けば、たとえ勝訴しても高い付けが回ってくるのである。だから、大方の人は、泣き寝入りをせざるを得ない訳である。

田代万二氏は、当時五十歳近い、背の高い人物で、如才ない紳士風に見受けられた。奥さんは鹿児島市内に洋裁学院を経営しておられた。

松村弁護士は、六十歳位の、割合小柄な方で、クリスチャンであり、人格者だった。製錬高潔な人柄を、慕われた由である。私も幾度かお会いして、温かい人柄と、慈眼は忘れ難い。

或る時、松村先生と私たち夫婦が一緒に、福岡に来たことがあった。その時、大眺閣ホテルで夜食を共にし、このホテルの窓から眺めた百万ドルの夜景の素晴らしさに感動し、こんなところに住めたら良いなぁ、という思いが頭の中に焼き付いていたように思う。

それが図らずも、幾年かののち、その大眺閣ホテルと目と鼻の先に、住居を持つことになったとは、不思議な巡り合わせと思う。

さて、一年ほど経過して、ドラミンと田代との争いは判決を見た。

「母ノブは後見人の資格なし、よって後見人は田代」、という判決が下った。

それから田代は、ドラミンの実権を握り、山の仮処分を解くことが出来るようになった。夫もこれで伐採ができると燃えていた。

この裁判の一年ほどの間に、夫はかなりの費用を投資していた。

弁護士の費用、自分の滞在費、旅費、そして田代にもかなり貢いだと思われる。

この頃、山の仲介人の松尾氏はこの一勝地の山を日向木材に売ることを仮約束していたらしい。勿論、夫の了解なしには、動かせないが、日向木材がかねがねこの山を欲しがっていたことは夫も知っていた。

「どうして、私の了解も得ず、日向木材と売買の話をしたのか?」と夫は松尾氏を責めた。

「野村さん、あんたもこれまでに、相当の金を使っているし、欲しいという者があれば、この辺で売却してみるのも悪くないと思いますよ。」

松尾氏は、しきりに夫をとりなし、

「兎に角、一度日向木材に会って下さい。本当の取り決めは、野村さん、あなただから。」、と言った。

仲介人は売買により、その手数料を取るのが仕事だから、なるべく物件が動かなければ、自分達には金にならない。勿論、双方の利益は考えて、仕事をしなければ、信用を失うので、その辺は仲介人にとっても、大事なことである。

日を置かず、日向木材と野村は、会うことになった。宮崎の日向木材に、夫が出かけて行くこともあり、先方から出向いて来たりして、幾度か折衝した。

その結果、山の半分だけ、つまり一勝地分にある分だけを売ることになった。価格は二千万円で売買契約した。

松尾氏はこの時、仲介料を二百万円希望した。

「いくら何でも、それはあまりに無法だよ。」と夫が言えば、

「私も今、のっぴきならぬ金に行き詰っている。無理と思うが助けてください。」

どうしても、頼むと言われ、

「半分でも多い位なのに、私の身にもなってくれ」と言いながらも、兎に角二百万円渡すことにした。

松尾氏の生活は、日頃派手だった。足も多少悪かったが、久留米の二号さんの家にいることが多かった。この人は金額の小さい山の仲介はあまり手を出さなかった。人のあまり扱わぬ大きな山の仲介にかけては、素晴らしい腕を振るった。仲介人としては大物である。

私は、この松尾氏の二百万円の手数料の件は後で知ったので、夫に言った。

「こちらは一年余りも、裁判で苦しんだのに、仲介料を一割とは馬鹿げている。」

「彼のところの山水館が借金の形に差し押さえられる所まで来ているらしい。息子がなきついとるらしい。」と夫は不機嫌な顔で言った。

山水館とは、松尾氏の息子の実氏が経営している日田市の、かなり大きな旅館である。日田の川開きには、私の家でも、山水館の屋形船を予約し、お客さんを招待したことも幾度かあった。

さて、日向木材は、当時東京の東京貿易株式会社から、七千万円を借金していたそうである。

一勝地の山を買い、この山で相当の利益を上げて、借金返済に充てることを考えていたと聞く。

念願の山を野村から一勝地の方だけ買い取ったが、この山はまだ仮処分のついたままの時だった。日向木材としては、仮処分の件はドラミンと交渉のつもりだったのである。

日向木材は早く伐採したいのでドラミンと交渉を始めた。その交渉がはかばかしくいかぬので、日向木材は田代を東京の東京貿易に連れて行った。

東京貿易は、田代に売買を強要した。田代は拒み切れず、また、よくも加わり、仮処分付きのまま、東京貿易と売買契約をしたのである。この田代の仕打ちに、流石の夫も腹を立て、喧しく詰め寄ったらしい。

兎に角、仮処分というのは、非常に強力な力を持っていることは確かである。

どんな人間でも、欲には目がくらむこともあり、開き直ったりすることも、よくあることである。

日向木材に弁護士が立ち、東京貿易の弁護士も、東京から度々熊本に来た。東京貿易の惟恒弁護士は、野村と裁判するためである。

この人は東京でも、相当の力を持った弁護士とのことで、好色家でもあったと聞く。

夫も日田より一旦出て行けば、十日も二十日も帰らぬこともあった。いくら裁判と言ってお、ぶっ通しに話すこともあるまいし、暇な時間もかなりある筈である。男は金と暇があれば遊ぶに決まっている。夫のいろんな風評も耳に入ったが、私は割り切っていた。

その頃は、私も小遣い位、自由になっていたし、人の出入りも多かった。日田にもダンスホールの一、二軒くらいあり、親しい奥さん達とたまに行った。大分上手になっていて、結構楽しかった。私も三十九歳となり、散々苦労したお蔭で、世の中の酸いも辛いも分かる女になっていた。芸者さんたちも時々出入りして、お茶くらい飲んでいった。商売上のお客を、招待することも度々あったので、顔なじみの芸者も多かった。

さて、東京貿易の方は、日田木材に七千万円は貸している上に、さらに金を出して、山の実権を握った。

その後も、野村と東京貿易とは、再三会合を持ち、交渉していた。つまり、まだ、野村が持っている上瀬村分の立木を買い取り、一勝地山の全実権を握るための交渉である。

やがて、売買は成立し、上瀬村分を売ろうということになった。

価格は最初二千万円切っては絶対に売らぬと言い張っていたが、値切られて、とうとう千五百七十万円で手を打った。

こうして、一勝地山の総実権は、東京貿易株式会社が握った。

熊本は、大きな山が動くところだけに、たかり屋が多く、夫が泊まっている旅館にも、やくざが殴り込み、威したり、嫌がらせをしたり、何度かあったらしい。

殊に、一勝地の方は、長年に亘り係争を続けていただけに、そんな取り巻き達が、大勢いたとのことである。

そんな妨害を避けて、東京貿易と契約する時は、都城まで来て、万一を防いだと聞いた。

十年余りも争われたこの山の裁判もこれで終止符が打たれた。

この裁判に参加した弁護士の数は、二十人ほどにもなり、使われた費用も、多額に上った。山林というものは面白いものである。

その山林に関係した者は、金額の相違はあっても、誰も損はしていないようである。しかし、現物の一勝地の山を握った東京貿易が一番儲けたことになる。この山は、それほど価値のある山だったからである。