祖父は「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介・元首相、父は「政界のプリンス」こと安倍晋太郎──。安倍晋三・首相(65)の華麗な血脈はつとに有名だ。しかしその一方で、父方の祖父である「安倍寛(かん)」の名が語られることは少ない。その「もうひとりの祖父」は、戦時中に反戦・反骨を貫いた政治家だった。なぜ安倍首相は祖父・寛について沈黙を貫くのか。父・晋太郎の番記者だったジャーナリストの野上忠興氏が、豊富な証言から読み解く。(文中敬称略)
総理大臣・安倍晋三の地元、山口県下関市の北部に、日本海に浮かぶ風光明媚な角島(つのしま)がある。今年3月に合併のため廃校になった角島小学校の旧校長室に、その肖像写真は今も飾られている。
〈材木商 安倍寛氏〉写真の人物は晋三の父方の祖父にあたる寛だ。小学校のホームページには、こんな説明がある。
〈なぜ、安倍氏の写真が角島小学校にあるかというと、焼失した初代の学校校舎を新築した際に、その材木の調達を一手に手がけられた方だからだそうです。角島の方は受けた恩義を忘れない人達なので、こうしてずっと写真を引き継いで来られたのでしょう。いろんなところで、いろんな人とつながっているのですね。
ご縁があるから、安倍首相も閉校式にちょっと来てくださればいいのに…。お忙しそうだから無理でしょうね、やっぱり〉
新型コロナのために3月8日に予定されていた閉校式は中止され、角島小は終業式をもって創立146年の歴史に幕を閉じた。下関市教育委員会によると、晋三には特に式典や閉校の案内は出していなかったという。
安倍寛は角島の隣の旧日置村(現在は長門市油谷)で多くの田畑や山林を所有する地主(庄屋)の家に生まれ、戦前、日置村長や山口県議、衆院議員を歴任、1946年(昭和21年)1月に議員在職中のまま病気のため死去した。享年51。戦後の第一回総選挙に出馬を準備しているさなかだったとされる。
角島小の旧校舎が建て替えられたのは45年(昭和20年)3月であり、寛の“最後の仕事”だった。当時、長男の晋太郎は20歳。晋三が誕生する9年前のことだ。
晋三は「政治家としてのルーツ」として母方の祖父・岸信介のことは折に触れて熱く語ってきた。著書『美しい国へ』(文春新書)でも、岸との思い出が多く語られている。ところが、「昭和の吉田松陰」「今松陰」とも呼ばれたもう一人の祖父・寛については、ほとんど語ったことがない。幼い頃から可愛がってもらった岸と違って、寛は自分が生まれる前に亡くなっていたという事情があり、それはある意味自然かもしれない。
しかし、それだけが理由とは思えない。
晋三の父で外務大臣や自民党幹事長など要職を歴任した晋太郎の番記者を長く務めた筆者は、晋太郎時代から安倍家に仕えたベテラン秘書がこう嘆くのを聞いたことがある。晋三が父の後継者として旧山口1区から衆院選に出馬した時のことだ。
「選挙区の古い後援者には岸さんより寛さんのほうが、はるかに人気があった。それなのに晋三君は岸さんのことばかり。だから、本人に『あんたは岸のことばかりいうが、安倍家のおじいちゃんは寛さんだ。戦争中、東條英機に反対して非推薦を貫いた偉い人だ。もう少し寛さんのことも言ったらどうか』と何度も伝えたのだが、頑として言おうとしないんだな」
それどころか、晋三が祖父・寛の存在から目を背け続けた結果、現在、山口では寛の足跡を研究することさえ“タブー視”されるようになっているという。地元の有力な郷土史家が匿名を条件に語ってくれた。
「安倍寛は東條英機に立ち向かった8人衆の1人で、山口の偉人としてもっと脚光を浴びてもいい人物です。しかし、以前に朝日新聞系の出版物で寛が取り上げられ、それを読んだ安倍総理が怒ったという話が伝わって、県内では歴史に残る人物としては扱われていない。研究者もいないし、地元のメディアも、首相への忖度でこの人物を取り上げるのはタブーになっている」
同姓の祖父の歴史上の足跡が消されようとしているというのである。
「反戦」を貫いた政治家
安倍寛とは、どんな政治家だったのだろうか。寛について触れた数少ない出版物の一つに、昭和期に活躍した山口県出身の794人の業績をまとめた小伝集『昭和山口県人物誌』がある。そこでは、寛が短くこう紹介されている。
〈県営畑堰工事、農民修練場の誘致、農士園の開発、入植などの業績をのこす。昭和十年山口県議、十二年衆議院議員当選。十七年再び当選。商工省委員・外務省委員などを務め中央政界において活躍〉
しかし、この記述だけでは人物像が浮かんでこない。
筆者はかつて、安倍晋三の評伝執筆のため、晋三の乳母兼養育係を務めた久保ウメに複数回ロングインタビューをしている。生家が安倍家と近く、晋太郎と小学校の同級生だったウメは、寛に可愛がられたことをよく憶えていて、こう述懐したことがある。
「(寛さんは)とてもハンサムでね。上京するたびに当時は珍しかった生のパイナップルなど色々なお土産を持ってきてくれたものでした」
寛は写真でもわかるように垢抜けていた。若い頃から脊椎カリエスや結核に苦しみながら、地元の要請で村長になり、地域の高等小学校の講堂を寄附したり、隣村の角島小学校の校舎再建に力を尽くすなど、地元に貢献した篤志家として語り継がれている。だが、その政治家としての真骨頂はなんといっても戦時中に“反戦”を唱えたことだろう。
1937年(昭和12年)の総選挙に「厳正中立」を掲げて無所属で初当選した寛は、国会で新人代議士とは思えない大胆な行動をとった。翌38年、近衛内閣の国家総動員法の審議で西尾末広(戦後の民社党委員長)が、「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、確信に満ちた指導者たれ」と賛成の演説をした時のことだ。
筆者と同時期、福田赳夫率いる福田派(清和会)を担当していた畏友・木立眞行氏(元産経新聞記者)が書いた晋太郎の評伝『いざや承け継がなん』の中で、国会で寛と行動を共にしていた赤城宗徳(元農相)がこう述懐している。
〈そのときアベカン(寛のニックネーム)は、“反対”と叫んで議席をポンポン飛んで、議長席に駆けあがったんだ。カリエスで、コルセットを巻き、歩くのがやっとだというのに、どこにそんな力があったのかねェ……〉
そして代議士2期目となる1942年の総選挙では、大政翼賛会の推薦候補が大多数を占める中、東條内閣に反対して翼賛会「非推薦」で立候補し、特高警察に監視される中で当選を果たす。筆者は息子だった晋太郎から、この時の選挙の苦しさを聞いている。
「旧制中学4年生だった俺も、親父の選挙事務所に寄ったりすると警察官からしつこい尋問を繰り返し受けた」
とりわけ晋太郎が多としていたのは、父・寛が選挙後にとった毅然たる行動だ。
当選した寛に旧知の大政翼賛会の大物議員から当選祝いとして3000円の電報為替が送られてきた。巡査の初任給が月給45円だった時代、現在価値で1000万円を超える大金である。
「家には選挙をするのも大変なほどカネはなかったが、親父は『非推薦なのに祝いはもらえん。お前、返してこい』と受け取らなかった」(晋太郎)
晋太郎は郵便局に行き、為替を送り返したことを明かしていた。
信介と寛、両祖父の邂逅
寛は政界で同じ非推薦の三木武夫(元首相)や前述の赤城らと行動をともにしたが、戦時下の国会では非推薦議員は質問や発言の機会をほとんど与えられなかった。
その頃、東條内閣の商工大臣として飛ぶ鳥を落す勢いだったのが安倍のもう一人の祖父・岸信介である。岸は寛より2歳年下だ。政治的立場が正反対だった寛と岸は、戦況が悪化していた1944年秋に会っている。
その頃、東條と政治路線で対立した岸は内閣改造を失敗させて東條を退陣に追い込むと、野に下って「防長尊攘同志会」を組織し、地元の山口県内を遊説して回っていた。その途中で、病気療養中の寛を見舞ったのだ。商工次官、大臣を務めた岸と、同じ山口県選出の代議士で衆院商工省委員だった寛は、以前から顔見知りだったとされる。
ただし、このとき2人が意気投合したという記録はない。前掲書『いざや承け継がなん』には同席者のこんな証言が記されている。
〈お見舞いにすぎなかったような気がする。その時はまさか、寛の息子と岸の娘が一緒になると思わなかった〉
では、岸の目には、寛はどんな政治家に映っていたのだろうか。後年、岸は回想録『岸信介の回想』で寛についてこう記している。
〈この安倍寛というのは“今松陰”と称せられた気骨のある人で、ただ結核で五十くらいで亡くなった。とにかく三木、赤城は安倍の子分だ。だから三木武夫が総理のときもわざわざ安倍の親父の寛の墓参りまでしてくれたよ〉
「反戦」より「父への反発」
岸と寛が会談した前後、晋太郎は東大法学部に入学(1944年9月)と同時に海軍滋賀航空隊に飛行専修要務予備生徒として入隊し、翌1945年春、全班員とともに特攻隊に志願する。
家族に別れを告げるために帰省した晋太郎は、寛から「戦争は負けるであろう」という見通しを伝えられた。「敗戦後の日本には若い力が必要になる」とも。その後も、寛は特攻に志願した一人息子に会うために病をおして何度か滋賀航空隊に面会に出向いている。
出撃前に終戦を迎えて生き残った晋太郎は、1951年に岸の娘・洋子と結婚。1954年に晋三が生まれる。そして、寛の死から12年後に、その遺志を継いで代議士となり、1974年に父の盟友だった三木武夫内閣で農相として初入閣する。岸が「三木がわざわざ寛の墓参りをしてくれた」と語ったのは、この時のことだ。
バランス感覚に優れた晋太郎は「俺は外交はタカだが、内政はハトだ」と常々話していたが、生涯、「岸の娘婿」と呼ばれることを嫌い、「俺は安倍寛の息子だ」と誇らしげに語っていた。
筆者は特攻隊に志願した時のことを振り返った晋太郎から、「二度と戦争をしてはいけない。平和は尊い。それが生き残った我々の責任だ」と聞かされた言葉が、強く耳に残っている。
自らの体験と「反戦政治家」である父・寛の背中を見て育ったことが晋太郎の〈政治の原点〉になるのは必然の流れだったであろう。
岸信介は東條内閣の閣僚として「宣戦の詔書」に署名し、戦後は総理として日本の自立と復興に力を尽くした。一方、安倍寛は反東條の立場で戦争に反対した。この2人の祖父を持つ「政治的ルーツ」は、晋三にとって戦後日本の指導者として誇りになり、武器にもなるはずだ。
父・晋太郎からも、祖父・寛の政治家としての覚悟や行動を聞かされて育ったはずである。それなのに晋三は、「岸の孫」であることは強調しても、「寛の孫」であるとは決して口にしようとしない。タカ派政治家としての立場から、いわば「反戦リベラル」的な思想の持ち主だった寛を“政治的ルーツ”と認めたくないからだろうか。そうとは考えにくい。
なぜなら、冒頭で紹介したベテラン秘書の証言のように、晋三はまだ右も左も定まらない“政治家の卵”だった初出馬のときから、選挙戦で「安倍寛の孫」とアピールすることを拒否していたからだ。
筆者には、父・晋太郎に対する反発が、父方の祖父・寛の否定につながっているように思えてならない。
安倍父子の微妙な関係については、拙著(『安倍晋三 沈黙の仮面』・小学館)に詳しいが、晋太郎は幼い頃に両親が離婚、若い頃に父を亡くして育ち、愛情表現が不器用だった。息子・晋三も自分の考えを押し付けてくる父に反発し、距離を置いているように感じられた。
そのことが、父が受け継いだ祖父・寛の反戦思想への反感につながっているのではないか。
晋三が若き日の共著『「保守革命」宣言』(1996年刊)の中で岸と晋太郎について書いた文章からその一端が読み取れる。少し長くなるが引用する。
〈父は大学以前の教育は戦前ですけれども、それ以降は戦後です。そうすると、戦争というきわめて悲劇的な経験をしていますから、そのことが非常に大きく思想形成に影を投げかけていたわけです。どうしてあんな戦争になってしまったのかとか、それに対する世代的な反省とか、そういう懐疑的な所がやはり多かった。
けれども祖父の場合は、先の大戦に至る前の、ある意味では日本が大変飛躍的な前進を遂げた〈栄光の時代〉が青春であり、若き日の人生そのものだった。だから、それが血や肉になっている。その違いが実に大きかったわけです〉
晋太郎の戦争体験を「非常に大きく思想形成に影を投げかけていた」と捉え、岸の青春時代を〈栄光の時代〉と呼んで憧憬を隠さない。そのうえで岸への傾倒の理由を、こう書く。
〈わが国の形として、祖父はアジアの国としての日本が、皇室を中心とした伝統を保って、農耕民族として互いに一体感を持ちながら強く助け合って生きていくという国のありようを、断固として信じていました。そのためには、自分は相当のことだってやるぞという感じがいつもあふれていた。それに強い感銘を覚えたことは事実です〉
岸と同世代の政治家として、日本が戦争に向かう中で官憲ににらまれながら「反戦」を唱えた寛の思想や存在は、どこにも言及がない。
「私は確かに安倍晋太郎の次男です。しかし私は私として、今から一政治家として生きていく決意です。ぜひ、ご支援、ご支持をお願いします」
初出馬のとき、晋三は父の後援会メンバーを中心とする集会で、ことさら父との違いを主張してみせたものだった。
そのときすでに、本来なら岸とともに誇るべき祖父・寛の思想も、父の中の「思想形成の影」の部分として切り捨てていたのかもしれない。
旧角島小学校の校長室に残る寛の肖像写真の背広の襟には、議員バッジがつけられている。
山林地主ではあっても、材木商を生業にしてはいなかった寛の肩書きが、代議士兼村長ではなく、「材木商」となっていることも、この政治家の真の業績が地元でも忘れられつつあることを物語っているような気がした。
●のがみ・ただおき/1940年生まれ。1964年、早稲田大学政経学部政治学科卒。共同通信社社会部、横浜支局を経て1972年、本社政治部勤務。佐藤栄作、田中角栄両首相番を振り出しに、自民党福田派、安倍派を中心に取材。野党、外務省、自民党(2回)各担当キャップ、政治部次長、整理部長、静岡支局長などを歴任後、2000年にフリー。政治ジャーナリストとして月刊誌、週刊誌で政治レポートを執筆するかたわら、講義・講演活動も。著作に『安倍晋三 沈黙の仮面』(小学館)など。
※週刊ポスト2020年9月4日号