横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

突然、私に、海外に行く話が舞い込んだ。その話の内容はこうだった。
海外でも、一日人間ドックは話題になっているらしく、いきなりポーランドから引き合いが来たらしい。既に東芝の医用機器事業の販売会社はヨーロッパのオランダにできていたから、オランダの会社がこのビジネスをまとめようとしていたらしい。しかも、その契約も最終段階に来ているのだと言う。
そこで、商談が決まり、半年掛けて据え付けだとしたら、その後のメンテナンスは誰がやるのかという問題が出て来た。
レントゲンやその他の診断機器のメンテナンスはオランダから行けばいいが、コンピュータのエンジニアは直ぐには育たない。溝の口の玉川工場にも当時は、若松さんと私しか居なかった。しかし、若松さんは英語が喋れない。ましてや、ポーランド語を勉強する気にもならない。
ところが、この若松さんは、もともと、上昇志向の人で、メンテナンスのために二年も三年もポーランドなどには行きたくなかったようだ。
私は、もともと、東芝に入った目的の一つは、海外に行き、世界の色々な人々に会ってみたいし、文化に接してみたかった。
だから、私にとっては、一つのチャンスだと思った。
だから、大学にいた時も英語は勉強していたし、東芝に入っても、英字新聞は読んでたし、英会話の勉強はしていた。
ただ、若松さんからこの話を聞いた時は、私は直ぐには飛びつかなかった。何故なら、この話がどうなるか分からなかったから。
しかし、話は思いの外、早く私の所にやって来た。
課長から呼び出され、私の意向を聞いてきた。
私が行ってもいいと答えた瞬間、私は部長に呼ばれ、念押しされ、数ヶ月後には、工場の設計部から東京の日比谷にある本社に移ることになった。
当時は医用機器事業部は医用機器の開発製造することと国内の販売を担当していた。
それらを輸出する場合は第二輸出部が担当することになっていたため、私はそちらに移ることになった。
この間、私は振り回される羽目になった。
入社後三年しか経っていなかったが、大きく人生の方向が変わっていった。

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