横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

私の周りの多くの先輩は、私のことを心配してくれて、色々アドバイスをくれた。例えば、
もう、エンジニアには戻れないかもしれない。だから、断れ、とか。
ポーランドに行くんだぞ。俺なら行かない、とか。
彼らから見れば、上からの命令で、私は犠牲者だと思われていたようだ。
時が経ち、私は入社三年後に輸出部に移って行った。
時が来るまで、私は南アフリカ共和国、俗に言う南アの輸出を担当することになった。と言っても、南アからの注文などほとんど来ない。体のいい場繋ぎといったところ。
たまに、注文が入って来ても、数万円の部品だけ。暇な時間が多く、私は自分で買ってきた輸出に関する本を読む。
先輩は、時に乙仲(船積み仲介業者)に連れ出してくれたり、通産省に輸出承認申請に出かけたりしていた。外出した時は、ほとんど必ず喫茶店によりコーヒーを飲んだ。
当時の私の思いは、これが仕事なのかと不思議に思っていた。
工場にいた時は、絶えず、私の頭の中には何枚もの電子回路図面が出て来て、緊張した毎日だったのに、輸出部に移ってからは、注文が入ったら、工場に手配するために、一枚の手配指示書を手書きで書くだけ。
つまらないことこの上ない。
ところが、月に一度、あるいは、二度位、医用機器事業部の事業部長が輸出部にぶらりとやって来ることがある。
その時、必ず、私に、
「佐藤、お茶を入れてくれ」と言って、私が入れたお茶を飲みながら、
「お前、今、何をやっているのか?」と聞く。
私を、ポーランド要員として、技術部から本社の輸出部に移動させた張本人だから、多少は気にかかっていたのでしょう。
ところが、ある日、この事業部長から電話で呼び出された。私のいる輸出部は本社の七階で、事業部長のいるのは九階。
この事業部長は少し小柄だが、部長やら課長には無茶苦茶厳しい人。
私が呼び出されたその時も、部長がガンガンやられていた。因みに、事業部長と言えば、次は取締役になる人。
その事業部長が、部長を怒った後、私にコーヒーを飲みに行こうと言う。
地下一階には、普通のサラリーマンが出入りするコーヒーショップがあった。
そこで、私にこう言った。
「佐藤、東芝はお前をどうして採用したと思うか?いいか、お前の同期入社は、600人位いるが、その内の何人かが、何百億円かのビジネスをやってくれればいいと会社は考えている。お前は、社長になった気持ちでいつも考えろ。」
私はこの言葉で、自分の生きる方向が定まった。
エンジニアから決別したものの、輸出部という海外営業の場に身を置いてみて、実のところ、どう生きるべきか、思い悩んでいたところだったのだ。
何故、この事業部長は特別私をコーヒーショップに連れて行って、こう言ったのかは実は私には分からなかった。
周りの部長、課長も何故事業部長が私に親しく話している光景を見て、いぶかっていたようだ。
「お前は、東芝に誰か知っている人がいるのか?」とか、
冗談で、
「お前は、首相の佐藤栄作の親戚か何かか?」
と聞かれることが多かった。
その時は、わざと、
「その話はしないことにしていますから。申し訳ない。」と言ってやるのだ。

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