横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

おばあさん、どうぞ

我が国の南北朝時代の話である。

禅僧の関山慧玄(けいげん)が美濃の伊吹山に隠棲していた頃の話である。

ある日、にわかの大雨で、本堂に雨漏りがし始めた。
関山は、
「なにか雨漏りを受ける物を持ってこい!」 、と大声で弟子たちに命じた。
しかし、雨漏りがするくらいの貧乏寺にバケツのようなものはどこを探してもない。
弟子たちはうろうろ、おろおろするばかりであった。

ところが、なかに一人、とっさに庫裡(寺院の台所)にあった、笊を持って駆け付けた小僧さんがいた。
---雨受けに笊?
常識的に言えば、雨漏りを受けるのに笊を持ってきても何の役にも立たない。

のちほど、だが関山は、この小僧の行動を大いに褒めた。
逆にうろうろばかりしていた他の小僧さんたちには、禅の精神が分かっていない、と叱ったという。

はたして、関山禅師は何を言いたかったのであろうか?

何事をするにも、タイミングというものがある。
電車の中で立っている老人に席を譲ろうとする。
しかし、一瞬のタイミングを逃すと、なかなか席が立てない。
色々と考えるうちに、老人に席を譲ることができなくなる。
他にも日常では、そのようなことがある。
一瞬の迷いが、我々を躊躇させてしまうのだ。

迷い始めると何もできなくなる。

禅は迷いを嫌う。
じくじく迷っていても、何にもならない。
役に立つか立たないか判断できぬと迷うより、まずは行動を起こすべし、と教えるのだ。