兄は終戦と同時に除隊となり、実家に帰った。母も息子や孫たちと暮らすようになり安心だったと思う。
復員した兄も、さしあたり仕事が無くて迷っていたので、材木屋でもやったらという私達の提案で、本人もその気になり、私達の広川の製材所を引き継ぎ、経営することになった。
勿論、兄は材木屋としては素人だったが、工場の仕事は、その日からできた。従業員も、工場も、私達がやっていた時のままだったからである。元々、兄は商売人だから、この道も自分なりに勉強して、伸ばしていった。
昭和二十六年の四月に、母は脳梗塞で倒れて、それより、半身不随となった。
私達は日田市に住んでいたので、度々見舞ってもやれず、申し訳ないことだった。
近所に光子さんという方が居られ、ずっと、付き添って下さって、手厚く看護していただいた。
二ヶ月ほどの病床生活で、身内に看取られ、六十三歳の生涯を終えた。
母も若くから苦難の道を歩いた人だったと思う。