横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

昭和四十年から五十年にかけ、夫は色々な仕事に手を出していた。

この事業で、この仕事でと、野望を燃やし、元の財産を取り戻そうと、苛立っていたように思う。

四十年頃、肥後に一つの杉山を買っていた。この山は見に行かなかったから、詳しくは分からないが、搬出に大変金が掛った。

搬出用のワイヤーを沢山買い込み、ブルトーザーを買ったり、道具につぎ込んだ金も、少々ではなかった。

鳥栖木材市場に、その山の杉材を出荷しているというので、或る日、私は、鳥栖まで見に行った。ところが、その杉材は材質が悪く、伸びの無い木だった。

これを見て私はガッカリした。夫には言わなかったけど、材質が悪く、伸びがなく、搬出が悪ければ、儲かるはずがないと思ったのである。

やはり、この山も、最後まで出材し終わらずに処分したが、買い込んだ器具類の金までは取り返せなかったと思う。

この後、夫は飯塚の畠田砿業所と契約して、選炭を手掛けていた。

ブルトーザ二台と、トラック三台の自家用を持ち込み、従業員と泊まり込みでやった。

この時は、井上さんという男の事務員が居た。この人は四十歳代で経理が専門だった。そのため、私は夫のこの仕事には関わりがなく詳しく知らなかった。

選炭というのは、石炭を掘って、石炭とボタと分ける段階で、そのボタの中には、沢山良質の小粒の石炭が混じっている。そのボタを機械にかけ、石炭を選り出す作業である。

この仕事を夫が始める時、幾平叔父や私の身内は賛成しなかった。理由は、もう石炭は斜陽になりつつあり、人件費が掛り過ぎるということであった。

仕事を始めた夫は、ほとんど飯塚に居り、私と詳しく話すこともなかった。当時は、夫から金をもらうことも滅多になく、私は諦めていた。

金策は大変だったと思うが、私の知らないところで、井上氏と話して行われていた。

一年も経過した頃、突然、管財事務所の役人が来て、差し押さえだと言って、金庫や戸棚、電気製品、タンスまで、封印していった。何か詳しくは分からぬが、私は冷めた気持ちで、落ち着いていたことを覚えている。

私は、自分の箪笥の張り紙は、すぐ取って使用した。女の物は簡単に、押さえられないことを知っていたからである。

ブルトーザやダンプなど何台も買っていたので、月賦未払い分の差し押さえだったと思う。

人の一生には、チャンスが三度はある、と聞いている。

夫もこれまでに、三・四度あった。それを、皆逃しているのが残念である。一回目は早津山で大金を儲けた時。二回目はレストランを二つ持った時。二つ持っていれば自分で営業しても、貸しても、生活の保証はある。日田も久留米も一流の場所だから、財産的価値も相当なものと思う。三回目は、レストランを売却して、福岡に出て来た時は、まだ、相当な金を持っていたので、事業をせずに、土地に変えて置いて、遊んでいれば、大した金額になっていただろう。

チャンスが来ても、それを上手につかんだ人と、逃した人が、成功の分かれ目である。