私の大きな疑問の一つは、
「なぜ、釈迦は坊さんが働くことを禁じたのだろうか?」
ということである。
お金の寄付を受けることを禁じている。
すなわち、坊さんがお金で物を買ってはいけないというのだ。
ただ、生きるために、一日2食を在家信者から布施してもらうことだけが許されている。
この点では、キリスト教の戒律よりも厳しい。
そこで考察してみる。
なぜか?
もっともらしい理由としては、生産活動に従事すると、どうしても戒律に抵触するからであるというもの。
例えば、坊さんが農業をすると、田や畑を耕さねばならない。
すると、土を掘った時、誤って地中の虫を殺すことがある。
それは、不殺生戒を犯すことになる。
けれども、それが理由であれば、事務系の仕事であれば、坊さんは従事できることになる。
すなわち、仕事を禁じる理由は他にあるということになる。
ひろさちや先生はこう理解している。
---世の中の役に立つ人間 ---
を尊重する世間の風潮に冷水を浴びせるためだという。
世間においては、まじめに働いている人間を高く評価する。
学校においても、世の中の役に立つ人間になれと教えている。
しかし、そのように世の中の役に立つ人間が”いい人間” だと評価していると、世の中の役に立っていない人間に対する蔑視が生まれる。
さらに、老人も若者に比べて役に立たない人間と見られてしまうのだ。
そこで、お釈迦様は、
「人間の価値は世の中の役に立つ、立たないといった物差しでもって測ることができない 」
といったことを教えるために、あえて坊さんに「無為徒食」の生き方をさせたのであろう。
人間は世の中の役に立たなくたっていいのだ、とお釈迦様は教える。
いや、これも誤解を与える可能性がある。
人間は、どんな人にも、役割・価値が与えられているのだ。
一面的な価値基準で、人を見るなと教えている。
今、自分がここにいるのも、自分の周囲の様々な人々に影響され、刺激されているのだと考えるべきである。
縁こそ大事にしろという教えにつながっている。