横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

小学子六年の半ば頃になり、私も女学校に進みたいと考えながらも、兄が中学校をあきらめたのに、女の自分が進学するのは、兄にすまないような気がした。

そんなある日、受け持ちの十時(ととき)先生が突然家に訪ねて来られた。

十時先生は、四十歳代で教育に熱心だった。口髭を生やし、笑えば優しい顔になった。

若しかして私が進学を諦めるかも知れぬことを感づいていられたようである。

「是非、志乃さんを進学さしてください。」

「お母さんも、一人で大変だろうと思いますが進学させねば惜しい子です。」

と言って、勧めて下さった結果、私は言い出さぬまま、家族から進学を認められた。

その頃、私の村では、年に一人か二人位の者が、中学校に行く程度だった。

戸数三百戸近くの村だったが、進学する子は、金持ちの家庭で頭の良い子となっていた。

義務教育は六年だったので、半数は卒業して働き出し、半数位が高等科に進んだ。

やがて私は入学試験を受けて合格した。合格通知が来た時は、今まで反対していた祖母も大変喜んでくれた。

私はやっと念願の八女高等女学院に入学した。新しい自転車も買ってもらい、セーラー服に靴も揃えて、丁度小学校の一年生に入学したような嬉しさだった。

こうして、ピカピカの自転車に乗って一里ほどの道を通学した。

同じ村に一年上級生の、山村ますみさんが居られた。この人も自転車通学だったので、毎日待ち合わせして登校した。

山村さんは久留米絣織元の娘さんで、村では金持ちの家である。当時八女地方では、織屋は有力な産業の一つだった。

彼女はスタイルが良く、美人だった。八女高女を卒業して、福岡女専に進学された。後年この人が、私の兄嫁になろうとは、つくづく縁の不思議さを感じる。女学校時代は、バレー部に入り、選手として県大会や、いろんな試合に出場した。ボール投げの選手にもなった。よき学生時代だったと思う。