横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

ポコ・ア・ポコ パソコン教室の実践的テキストを開放しています。ご活用ください。

このテキストは、上級です。
作成のポイント:
まず、文章をすべて横書き入力します。
すべての文章を選び、[書式]からフォントの設定と[段落]で左インデントと字下げの設定を行います。
次に、テーマ「テスト2」
をワードアートにします。
最後に、画像をインターネットから持ってきてそれをピクチャーに保存します。
文字の折り返しメニューで画像を前面にします。画像は[画像の配置] で上ぞろいかした揃えにします。


テスト資料

私は幼い時から孤独でした。一人で本ばかり読んで、空想しているような子どもでした。
父は銀行員で、戦前戦後をまたいでアメリカに長く滞在しました。ちょうど洋行する時にできた子どもなので、洋子と名付けたそうです。芸術家肌の父は、よくピアノを弾いていました。私をピアニストにしたくて、幼いころからレッスンを受けさせました。
二歳の時に渡米しましたが、日米間の緊張が高まった一九三七年、母や弟と帰国。東京・麻布の家に住むことになりました。
冬の季節には、私だけ。暖かい鎌倉の母の里の別荘に送られることもありました。そこは、迷子になるほど広い庭がある家でした。聖書を読んでくれる家庭教師と外国人のピアノ教師、何人かのお手伝いさんが一緒でした。「お食事ですよ」と言われて食堂に行くと、長いテーブルに座って一人で食べるのです。家庭教師はただ座って見ているだけでした。
遊び相手はもっぱら別荘番の子ども。私が「何をして遊ぼうか」と聞いても、「お嬢様のなさりたいことをしましょう」なんて言うのです。そのうちに「ちょっと用がございます」と家に帰ってしまうので、様子を見に行くと、自分の学校の友達と遊んでいるのね。そんな時はたまらなく寂しかったものです。

母は、私を独立心の強い娘に育てようとしていました。ですから、甘やかされた思い出がありません。道で転んでも、たくさんお付の人がいるのに、だれも助けてくれないの。母から「自分で起きることを覚えなくてはいけない。手を貸さないように」と指示されていたのでした。
母はよく、「女でもお前ぐらい頭がよければ外交官にでも首相にでもなれる。結婚とか子どもを産むとかバカなことをするもんではありませんよ」などと言っていました。

十二歳の時、戦火が激しくなり、幼い弟と妹を連れて長野県に疎開しました。東京から来た私たちは、食べ物を求めて農家を訪ね歩いたこともありました。
おなかがすいてふらふらになり、畳の上でごろんとしていると、軒下から青い空が見えました。「ああ、空ってきれいなもんだなあ」と思って、毎日何時間もぼんやり眺めていたことを、覚えています。

終戦の年の冬、荷車で山を越えて東京に戻ると、そこは見渡す限り焼け野原だったけど、頭の上の空は澄んで美しかった。だから、つらい時は心の中の「空」のコレクションを思い出すことにしています。もしかして私は空の彼方から来たのかもしれないと想像するだけで、何だか気分が晴れるのです。