横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

田舎はいい。やはり、育った家に帰ると何故か落ち着くものだ。匂いのせいか?あるいは、家から見える景色のせいか?親がいるせいか?育った当時を思い出せるせいか?とにかく、理由は色々あるが、自分の育った家はいい。

私の育ったところは、山口県の片田舎、厚狭(あさ)である。先月、兄の葬儀で帰ったところ、昔、賑わっていた町筋に店がないのに驚いた。不景気が続いたせいか、あるいは、まちづくりに失敗したせいか、多くの街で同じ現象が起こっている。

あらためて、昔はよかったとつくづく思う。私の育った家は正に百姓家の家。藁家で、牛を飼ってた納屋があり、農機具を保管する場所や精米していない玄米を貯蔵する貯米機を保管する広い土間があった。
米は竃(かまど)で炊いていた。そのための、焚き木や薪も保管してあった。


家の前にはちょっとした畑があり、茄子(ナス)、キュウリ、豆類、かぼちゃまで作っていた。
夏の黄色い瓜(ウリ)はとても好きだった。

ところが、親父の退職で、やれ、家を建てることになり、この古い家を壊すのだ。
親父にとっては一大決心であったであろう。
今、我々がマンションを買うような感覚とはとても違っていたと思う。

そして、今の家ができたのだ。
しかし、貧乏人の悲しい現実があった。
すなわち、納屋や土間こそないが、エアコンなどを設置することなど、つゆも考えられかったのだ。
1964年頃のことだから仕方のない話はわかっている。

暑い夏の家は開けっ放し。
泥棒?
「泥棒が入っても取るものなど何もない」、と貧乏人の強みである。
夏の暑い日には扇風機はあるものの、やはり、暑くてかなわない。
そこで、みんな裸同然。
親父など、パンツ一丁で家の中を歩いていた。
啓一兄など、ふんどし一丁で平気。
お嫁に来た里江姉さんは、多分、「こんなはずではなかった!」と感じていたはず。

私の家内が初めて、夏に厚狭に行ったところ、パンツ姿のパプアニューギニアから来たと思える人種が家でごろりとしている光景を見て、
「これ、何?」と驚いたと言う。
また、洗濯をしようと洗濯機の所に行くと、タライの中で白いモノが浮いている。
私を呼びに来て、「これ、何?」と聞いたので、
「これは兄貴のふんどし」と説明すると、
「へー、これがふんどしというもの?私は新体操で使うものかと思った」と返ってきた。

パプアニューギニアから来たと思える人の話を、ことのついでにもう一つ書いておく。
親父がパンツ一丁なら、その連れ合いのお袋は食事の時でも上半身は裸。
おっぱい丸出しの生活。
その食事時、近所のおじさんが何やら持ってきた。
お袋は、そのおじさんに、おっぱいを片手で隠しながら、
「まあ、こんな格好で、失礼だね。でも、あんた、得したね!」
と笑いながら、平気な顔で会話を交わしていたことを今でも思い出す。