横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

俺の学生時代のドーカンは目に余るものがあり、通学途中、川に板を流し、米つき水車の水羽根に板をせり込ませ大きな水車が止まるのを見て知らぬ顔。
ある時は、文句を言われた腹いせに植えたばかりの稲田を走り抜け、得意満面。
また、ある時は水車に石を投げつけ水の流れ出るのを喜んでいたところ、水車小屋に待ち伏せられ、現行犯として家に通告され、親父は、晩、お断りに行く始末。
末恐ろしい子供と折り紙を貼られ、このままでは一人前の社会人とはなれないと、うそぶいていた人がいたとか。

それが、卒業と同時に心機一転、別人の如き働き者となり、親父も変に感ずるようであった。

いよいよ、待望の鉄道就職。
12月22日から出勤せよとの連絡があった。
時節も師走。日は短く、寒くもあるのに初出勤。
親父は喜んだ。

慣れない仕事で、油垢と煤にまみれ。
また、一番の新米ゆえに乗務員の小使い。
自分の仕事の他に洗面用の湯くみ。熱ければ「熱い!」と蹴飛ばされ、手を入れて湯加減を見ると湯垢が浮かんでいると蹴飛ばされる。湯加減はバケツの外でみろと怒鳴られる。
また、出勤についても、古参者から、「も少し早出勤してストーブを焚け」(と言われても石炭ストーブなんて初めて見る田舎者)とか、「態度が悪い!」と文句だらけ。

辞めようかと思ったことも再三だったが、大工の弟子もケツを割り、機関区も辞めるとなると俺は親父に甘えすぎるのではなかろうかと、涙を押さえ意を固めた。

幸い鉄道というところは、資格試験オンリーと聞き、これに合格すればこの辛さも乗り切れると考えた。

そう決心すると、朝の早いのも、晩の遅いのも、仕事の辛さも何のそのであった。却って、そのことが刺激となり、非番の日も帰る道々本を片手に法規など内容が判らないまま丸暗記。これが別府(べふ)・松岳畑の人たちの評判となって、嫁取りにも有利な風評を展開した。

こうなってくると、親父も俺に対し、機嫌を損なわしてはと少々の気の遣い様。

かくして、春が来て、機関助士科試験に合格。就職して半年後に鳥栖の教習所に入所。銀釦ではあるがサージの制服を頂き、生まれて初めて洋服というものを着用。3円の底ゴムの革靴を履いた。
引越しで落ち着かない時だったが、親父が非常に喜び何やかやと気を配ってくれた。

しかし、父や母は銭が欲しい時期。極力自分も経費を節約し親に与えた。家では秋の収穫の殆どを節季の支払いに充当し、移転に対し始めた頼若(頼母子:たのもし講)で家計のやり繰りは並大抵ではなかった。

 

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください