横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

教習所を出ると、翌日から下関機関区に転勤し、合宿生活が始まった。休日には必ずと言っていいほど家に帰った。

給料支給後、親父に20円渡すと、「肥料なしの米4俵が買えるから家計の支えとなる」と言って喜んでくれた。「だから、無駄遣いはできない」とも言っていた。自分としては機関区で働いて来た価値を十分感じた。

親父やお袋が丁重に扱うことを今でも目に映る。

大正13年の4月、美祢線が正明市(今の長門)まで開通し、9月頃下関から出張した。

出張旅費と乗務旅費が入るので、月20円の外、10円の旅費の分け前を渡すと親父もお袋も涙を流して喜んだ。

その後、いよいよ厚狭機関区転勤が決まると、家計のやり繰りまで嘴を入れるようになった。
買掛は絶対やらぬよう、常に現金主義に変え、金の使途まで詮索するようにしたら、母も最初は面倒くさがったが、ついに同調して現金主義に徹してくれた。
お陰で3年後には、年の瀬に借金なし。親父が、
「今年は節季師走の支払いがひとつもない」と言い、年越しの蕎麦で酒を飲んだ顔が今でも彷彿とする。

この頃から俺の夜遊びが始まり、嫁とりは親の責任だと感じたのか村長の弟次郎さんを動員し、後藤浅之進の奥さんの妹と宇津井のお祭りに招かれ、見合いをさせられたこともあった。
幸か1つ年上だったので断り、機関士になるまでは妻帯すまいと考えていたが、遂に小野田の叔父清治さんに説得され、縁あって現在の家内と結ばれた。

自分の子供を嫁にやり、子供に嫁を取らせ、初めて親父、お袋の心境がしのばれる。経験して初めて実感のでることが分かった。

南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏、合掌

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