横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

夫の叔父の野村幾平は、朝鮮平上で手広く旅行用具店を経営しておられたが、朝鮮動乱の時、体一つで内地に引き揚げて来られた。

この叔父は、弁護士の資格もあり、商才もある人だった。笑う顔はとても柔和で、優しかった。

引揚車で、博多駅に下り、千代町まで歩いてきて、一面焼け野原となっている中で、明日からの住いはここに決めようと思われたそうである。

それから日田の私達の家に来られた。家族三人着のみ着のままだった。

「千代町の焼け野原の中に、バラックを建てて、住みたいと思うので材木を出してくれ」、と頼まれた。

私達もこの頼みには、すぐ賛成し、早速材木を積み、現地に運んだ。

「元の土地の所有者がいるはずだから、文句が出て立ち退きを命ぜられることになったら困りますね。」

夫は不安そうな顔で言った。今は焼土と化して、何もかも分からなくても、きっと後でいざこざが起こりはせぬかと心配した。

「心配いらぬよ。その段位なれば買い取るつもりだ。市がそこまで手が打てるようになるには、随分期間を要するだろう」、と法律のことに詳しい叔父は、早く建てたものが勝ちと言わぬばかりに案ずる風もなかった。

叔父の言った通り、二年後位に安い土地代のようなものを支払ったと聞いた。その後、バラックは、本建築に建て替えられたが、バラックを建てた時の木材とその必要経費は夫の寄贈であった。