横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

身動きとれず、二人で悶々とした日を送っていた。子供達は久しぶりに、両親が家にいるので喜んでいた。

その時、一つのことが私の頭に浮かんだ。

「今のうちにダンスを習っておこうかしら。こんなに毎日ブラブラしていたら、時間がもったいない。」

その頃、ダンスが流行し始めていた。ダンスを知っておくことは、将来役に立つかもしれない。また、一方では、万策尽きた夫に、やけでも起こされたら、困るという考えもあった。

夫は共鳴も反対もしなかった。

学校の先生をしている親戚の博之さんが、ダンスのできるのを知っていたので、この人に家に来て教えてもらうことにした。学校の方は丁度夏休みだったので、好都合だった。

二階に蓄音機を上げ、レコードで練習が始まった。夫も黙っていつか仲間に加わっていた。家は製材所で敷地も広く、隣近所に音の聞こえる心配はなかった。

しかし、身内か、親類の者にでも知れたら、それこそ山はほっぽり出して、夫婦でダンスに現を抜かすとは、何事かと怒鳴られるに決まっていた。

音は外部に絶対に、もれぬよう注意し、家族の者にも、口外しないよう、固く口止めした。

ダンスは、一番初歩から始め、ブルース、単語、トロット、ワルツと一通り習い、いろんなレコードをかけて、毎日踊った。

せめて、踊っている時間だけでも、金銭地獄から解放されることが出来ればと、ただ、ひたすら踊った。

こんな両親の姿を見ても、子供たちは不潔とも嫌いとも言わず、一緒にいられるので、毎日嬉々としていた。

一ヶ月ばかりこんな日が続いた。心にもないダンスに酔いしれているうち、二人とも大変上手くなった。

この間は、金の話はタブーだった。しかし、時々山から、金はまだかと催促してきた。

「出来ないものは仕方がない。ダンスでもしなければ、こちらの気が狂いそうだ。でなければ、一家心中するより仕方がない。」、とさえ私は思った。

しかし、死ぬのに急ぐ必要はない。

「山には木材が山ほどある。あれはみんな金なのだ。唯、そのまま使えぬだけだ。それを金に換えるため、こんなに苦労しているだけだ。頑張れ。」、と私は自分に強く言った。

ある日、夫は、博之さんに話していた。

「博之さん、今、私ゃ、二百万円ばかりの借金がある。働いても働いても、金は右から左に消えて行ってしまう。この借金ば、返して、じっとしていた方がよかかも知れん。山の人夫達に給料払って、食料の心配までして、食わしている。ただ働きみたいで一つも報われん。どうしたもんかのう。」

「栄さん、気持ちは分かりますばい。でも、一にも辛抱、二にも辛抱ですたい。頑張らんですか。」

「うん、そうかのう。」

博之さん相手に、夫はやり場のない気持ちを打ち明けていた。

本心でもない踊りと音楽に明け暮れて、一ヵ月ほど経った頃、野中さんが、四十万円の金を用意してくださった。

それは、野中さんと共有で、木屋村に一つの杉山を持っていた。その山の栄の持ち分を野中さんが買い取って下さって、その杉山の代金として四十万円を支払って下さった。

当時の四十万円は、現在の三千万円ぐらいの価値はあるだろう。

地獄で仏とはこのことで、涙の出るほど嬉しかったのは言うまでもない。

この金を持って、取るものも取りあえず、山に登り、各部署、各人に分配し、まあまあ文句の出ぬ程度に、支払いを済ました。

木材は主に、日田方面に出荷していた。

夫は山に泊まり込みで、指揮をとり、私は外部の用を引き受けていた。

日田の旅館に泊まることもあれば、広川の家に幾日か居り、また、山に登って一週間くらい、泊まることもあった。

一番下の寿江美は三歳だった。家のこと、子供のことは、留守中、律ちゃんに任せっきりだったが、毎日のように来てくれて、泊まったりしていたので、その点、安心だった。子供たちも、律ちゃんによくなつき、殊に寿江美は夜も一緒に寝ていた。

私が一週間も山に泊まり、何日に家に帰るからと連絡しておくと、律ちゃんは子供たちを連れて、近くのバス停まで、迎えに来てくれていた。

しかし、山の都合で、連絡しておいた日に、帰れぬこともあった。

最終のバスまで待って、お母さんが帰って来なかった時の、子供たちの失望は可哀想で、見ておれないと言っていた。子供達は泣きたいのを、じっと我慢していると言い、

「奥さんが帰ると言われた日には、無理してでも帰って来て下さい。でないと、子供達があんまり可哀想で。」、と律ちゃんは涙ぐんだ。

「御免ね。あんたにも苦労ばかり掛けて、私も家のこと、子供のことが気がかりで仕方ないけど、手が足りないもんで。」、と謝る外はなかった。

律ちゃんは、実に働き者の娘であった。子供の世話の傍ら、野菜作りも上手だし、子供達の衣料も、うまく繕って着せていた。