取りあえず茂田井の松山を、見に行くことにした。乳飲み子を連れ、夫について行った。 松山まで行く途中、木間道が掛っていた。二本のレールを並べ、枕木は小丸太を打ち付け、その上を木材を積んだ橇(そり)が通るのである。山道だから殆ど傾斜で、よほど熟 …

取りあえず茂田井の松山を、見に行くことにした。乳飲み子を連れ、夫について行った。 松山まで行く途中、木間道が掛っていた。二本のレールを並べ、枕木は小丸太を打ち付け、その上を木材を積んだ橇(そり)が通るのである。山道だから殆ど傾斜で、よほど熟 …
昭和十二年に日支事変が起こった。 昭和六年日本軍が満州に引き起こした侵略戦、つまり満州事変があり、その翌年の昭和七年に五一五事件があり、海軍将校や士官学校の生徒らが、支配階級に不満を抱き襲撃して、政党内閣の幕を閉じた。 昭和十一年に二二六事 …
昭和十一年頃、私の工場では、鮮魚箱を主に作っていた。世の中は不景気で、新築の家も少なく、木材の需要は限られていた。 現在のように、木材市場も無かったので、家一戸分の用材を全部揃えるには、日頃から原木を確保しておく必要があった。金のない私たち …
私との結婚前の話であるが、夫は現役の時、太刀洗の飛行隊に入隊した。それで、飛行機のことは勿論、機械のことは専門家並みに詳しかった。 夫が現役二等兵の時、秩父宮様が太刀洗の飛行隊に一カ月間入隊された。 久留米市に日本ゴムの石橋別邸が新しく建ち …
昭和九年の五月、私は材木屋に嫁いだ。 私は二十一歳になったばかり、夫は二十八歳だった。 夫は製材工場を、八女の星野村に当時持っていた。私はそんな奥に住みたくないので、工場を移転することを希望した。夫もその移転の件は、かねがね考えていたらしく …
私が女学校を卒業した翌年、いつもお世話になっている野中さんから一つの縁談が持ち込まれた。この人は遠縁にあたるけど、裏隣りで、親しく行き来していて、私も大変かわいがられた。私はおじさんと呼んでいた。 おじさん夫婦には子供が居なかったので、小さ …
小学子六年の半ば頃になり、私も女学校に進みたいと考えながらも、兄が中学校をあきらめたのに、女の自分が進学するのは、兄にすまないような気がした。 そんなある日、受け持ちの十時(ととき)先生が突然家に訪ねて来られた。 十時先生は、四十歳代で教育 …
私が小学校を終えるまでは、家族四人の生活に、電燈は四十燭光が二つだけだった。一燈だけの家も多かったので、普通だったのだろう。 家の建坪は、一階が四十坪位、二階が十坪位で、畳の部屋が五つと、板張りの部屋が二部屋あった。土間はかなり広く、納屋と …
村では出方という風習があった。お互いに労力を出し合って、道路づくりや修理、川の掃除、学校のこと、お宮のこと、お寺のことなど皆でやっていた。特に田畑を持っている所は、農道づくりや、水路のことなど、一年を通じて、相当の日数の出方があった。 その …