昭和四十年から五十年にかけ、夫は色々な仕事に手を出していた。 この事業で、この仕事でと、野望を燃やし、元の財産を取り戻そうと、苛立っていたように思う。 四十年頃、肥後に一つの杉山を買っていた。この山は見に行かなかったから、詳しくは分からない …

昭和四十年から五十年にかけ、夫は色々な仕事に手を出していた。 この事業で、この仕事でと、野望を燃やし、元の財産を取り戻そうと、苛立っていたように思う。 四十年頃、肥後に一つの杉山を買っていた。この山は見に行かなかったから、詳しくは分からない …
「ロンドン大学で勉強している」と言う娘の電話で少しは安心していた。 その後は、私も忙しいので時々思い出すくらいだった。 一ヶ月半ほど経ち、娘から手紙が来た。急いで封を切ると、手紙と一緒に男性の写真が出てきた。手紙には、この人と結婚したいから …
大阪万国博覧会の時、道子はコンパニオンとして勤めた。 万博に浩宮様がおいでになった時、その案内役に選ばれた。 万博が終わった時、住友バイエル株式会社に就職した。この会社は住友とドイツのバイエル社との合併だった。万博に勤めていた時から、住友の …
昌三は貿易科を出て、東京の文祥堂株式会社の外商部に勤めていた。 高校の時から、親元を離れ、東京で暮らしている彼は、親も年老いたので、一人息子の自分は、福岡でこれからの人生を築こうと思ったらしい。彼の夢は、不動産会社設立だった。 帰ってみると …
大名校に、格好の売舗があったので、随分考えた末、買い取った。価格は備品とも、百六十二万円だった。少し、改造して、割烹の店にした。 親戚の美代子さんに手伝ってもらった。この人は料理が上手だったから、お客さんの評判は良かった。 しかし、朝は早く …
一年前に買っていた隅田浦の土地に住居を立てようということになり、本格的に業者と折衝した。 この土地は百坪ばかりの山林で斜面だったので、こんな地形にうまく家が建てられないかしらと危ぶんでいたが、夫は自信たっぷりに、素晴らしい家が出来ると自慢し …
昭和三十五年五月、美枝子は今田信と結婚することになった。 私達の住居の隣に、和光証券の寮があった。寮母さんと親しくなり、始終行き来していた。五十歳位のさばけた人だった。 今田さんも、本社から検査官として、度々福岡に来て、寮に泊まっていたので …
箱崎を引っ越す朝、私は大変体調が悪く、やむなく荷造りはしていたが、苦しかった。近所の医院に診てもらったが、詳しいことは分からぬまま服薬をくれた。私はその朝の血便を見て、もしや赤痢ではと危ぶんでいた。 平尾に引っ越して来た日は、土曜だったので …
さて、日田のレストランは、常連の客も増え、順調だった。 三十一年に小林の山、牧園の山を手放した夫は、多少暇も出来た。この暇が出来るのが夫にとっては危険である。 案の定、夫はもう一軒レストランを造ると言いだした。 「今ようやく、この店が軌道に …
私達が日田に移り住んだ昭和二十六年は長男の昌三が中学一年、長女美枝子が小学六年、自助道子は小学三年、三女寿江美が幼稚園だった。 昌三は小学校の時からマラソンの選手として県大会などに出場していた。 彼は県立日田高校に入り、東大に進みたい希望を …