早速、翌日から欠勤、さあ親父の気の使い様は一通りではなかった。傷つきやすい青春期の俺に対し、ドーカドーカと言うので事情を話すと、すぐに了解してくれた。そして、師弟契約は実働10日くらいでピリオドとなった。
何の抵抗もなく師弟解消とはなったものの、さて、将来これからどうするか、親父としても頭を痛めただろう。
卒業後、一年近く経っている。どうしようかと苦慮する矢先、「お前、機関区に入らないか?」と言われた。当時厚狭機関区の事務員であった寝太郎町の室井光枝さんに話を繋いでもらい、就職試験の受験手続きをしたらしい。
そこで、これを受諾。4月を目標に受験準備に取り掛かり、今度こそはと度胸を決めた。
卒業後、通信教育をやっていたので、算数・国語には多少興味はあったが、中学受験問題集を買い求め、一心不乱に勉強した。甲斐あって試験は一発で合格。欠員あり次第採用する、待機せよとの通知があり、喜んだのは、自分は勿論、親父も喜び、いよいよ午玉が谷を出る決心ができたような気がする。
一日千秋の思いで採用通知を待つ一方、親父は3年連続の干魃(かんばつ)で稲は枯死、無収穫に終止符を打つ見込みのため、本格的移転準備を進めたらしい。
堤添えの四反ばかりの田と山林は僅かであるが山田重作氏に売却。山田氏と小作契約を結ぶ反面、中の倉と午玉ヶ谷の青田小作契約放棄を申し出た。
そこで慌てたのが寺総代。親父が引き揚げると、後、小作する人は見つからない。ずいぶん思い止まるよう説得されたらしいが、親父は頑として思いを翻さなかったようだ。
山奥の話ではあるが、自分で無理して入手した田や山に執着せず、大正12年4月今の所、寝太郎に住居を構えた。
俺が前年の暮れ12月22日に就職したという安心感もあったろうが、随分思い切った処置に出たものだと思う。また、その親父の勇気で今日の家庭が気づかれたものだと、先祖のお陰を感謝し、念仏の一つも唱えたくなる。