横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

人生は迷いの連続。それは当然のこと。

生まれて物心がついた頃から、ふと我に帰ると、今自分はどこにいるのか?と思うことばかり。

小学二年生の時、親父の仕事の都合で、田舎から下関に移り住んだ時のこと。
友達ができるまでの間、一人で学校から知らない道を一生懸命歩いて帰ったある日、ふと自分が知らない街を歩いていることに気付き、急に怖くなって走って、泣きながら帰ったことをはっきりと覚えている。

また、小学六年生の時、一人で風呂に入っていて、なぜか、両親が死んでしまったら、いったい自分はどうなるのだろうかと思った瞬間、怖くなり、泣いてしまったことも覚えている。

また、大学に入って岡山で一人の生活が始まった時、学内を一人で歩いていたら、急に、
「自分は、どうしてここにいるんだろう?」と思ったことも覚えている。この時は、寂しいとか、怖いとかいった感覚はない。ふと思っただけ。

そんなことを思い出すと、それは一体全体どうしてそう思ったのだろうかと考えてしまう。
あえて、その疑問に回答を出すとすると、自分のこれからはどうなるのだろうか?とか生きる目的は何か?といった疑問に何も結論が出ていないからであろうと思う。

今、現在、私は70歳。いまだに何の回答も得ず。

しかし、最近、ようやく、“私の役割”という言葉を見つけた。
何の役割か?と問われてもそれは言えない。しかし、存在こそが役割なのだという気がする。

実は、我々、一人一人の存在の目的・役割などというものは分からない。しかし、ある生命(生きる意思)の存続させるために、何らかの役割を各個人に与えられているのだろうと考えるのだ。

それは、何万個体の精子が女性の膣を駆け抜け、卵子に到達し受精させる様に似ている。
先頭を駆ける精子は女性の膣の酸性の体液を中和させる役割を果たす。また、食細胞に自らが食べられることにより、後続の精子群を先に進める役割を果たしているのである。

今我々は宇宙のどこかを渦に乗って、彷徨っているのだ。
その渦には各種ある。
まず、コップの中のお茶を混ぜるとできる小さな渦。
川や海峡にできたり、消えたりする渦。
惑星が太陽を回る規模の渦。
このように渦には規模の違った渦がたくさんある。

しかし、ここでは分かりやすいように、川の流れの中でできる渦、あるいは、鳴門海峡にできる渦のレベルで、我々の日常生活の出来事を考えてみることにする。
時には、大気圏の台風・ハリケーンの例も取り入れて考えよう。

まず、我々は川の上流を流れていることにしよう。