横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

石坂泰三 経団連会長ブラジルで医療機器を売る際に、シーメンスやGEの競業他社はファイナンス付きを始めたという話が飛び込んで来た。言い換えれば、割賦販売である。
アメリカやヨーロッパや日本では当たり前の話だが、ブラジルのように、インフレ経済で、ブラジル通貨のクルゼイロの切り下げも激しい国には、怖くて、割賦販売などを考えることなどあり得なかった。しかし、ブラジルの将来性のことを考えたシーメンスやGEは積極的だった。
こんなことは、メーカー主体でが行わなければならない。だから、サプライヤーズ クレディットと呼んでいた。
いかに医者が金持ちと言えども、何千万円、何億円の商品を買うのに現金でホイホイと支払える人は少ない。
ブラジル国内にも、分割払いの制度は無いこともないが、何せ金利が高すぎるから、誰もその制度を使わないのだ。
そこで、先ず東芝インターナショナルコーポレーションにそのサプライヤーズクレディットの仕組みに一枚加わってもらおうということで、東京本社に東芝インターナショナルコーポレーション(略してTIC)の社長とブラジル現地法人である東芝メディカル・ド・ブラジル(略してTMB)の社長と東芝本社に呼ぶことになった。
そのため、事前に、TMBの社長大川と営業担当の高瀬部長が東京に来て、事前に打ち合わせを行い、五ヶ年販売計画を作成した。
この時の東芝本社側の課長は滝本。
大川と滝本は考え方がまるで違った。それでも、何とか大川が妥協して、案がまとまった。
すると、私達、主任の荻島と私の出番である。
私達はその案に沿って計画書を作っていく。
原案を電卓で作り、清書はワープロか、ミニコンを使っていたような気がする。
ところが、清書が出来上がると滝本は、別の視点で計画書を作ってみようと言う。
それで、また、我々は振り回されることになった。
帰宅は、いつも深夜12時を越えていた。
何度か作った後、私は頭に来たので、滝本に
「一体、アンタはどの計画で行くのか?」と迫った。
すると、滝本は、
「君たちは、僕の振るタクト通りに歌えばいいんだ。」と生意気なことを言うので、私は、
「一体、あなたは我々に何の歌を歌わせようとしているのか?」と迫った。
そこに居たブラジルの大川も賛同してくれた。
そして、本番の日がやって来た。
プレゼンは大川が行った。
そのプレゼンは約20分程度で終わった。
アメリカから来ていたTICの石坂社長は眼光鋭く、大川を見て、
「中々いい計画だと思う。このビジネスは儲かると思う。しかし、本来、お願いする東芝本社の滝本君から、是非、協力して欲しいという声が無かったので、残念ながら、私はこのビジネスには参画しない。」
と言って、部屋から出て行った。
こう言われた滝本は、ただただ、ニヤニヤと笑っていただけだった。
私は、この光景がその後もずーっと忘れられなかった。
この石坂は、元経団連の会長の石坂泰造の息子だった。こんな男はそれ以前もその後も私は見たことはない。堂々たる男で、頭脳明晰だった。
1985年の東芝ココム事件で、当時の青井社長はアメリカ合衆国に対し恭順姿勢を取ったが、この石坂は東芝の姿勢をアメリカ合衆国に示すべきだと主張した。しかし、青井社長は石坂の意見を採用しなかったため、石坂は東芝を辞めたのだ。実に骨のある男と私は評価した。
一方、滝本は、この後、工場に左遷されてしまった。
会社とは厳しいものだと、この時、目が覚めた。
このサプライヤーズクレディットの話は、更に一年後に、場所をサンパウロに変え、役者はロンドンに東芝が作った東芝インターナショナルトレーディング(TIT)の立木社長とTMBの大川社長と本社経理の課長と私の四人でまとめることとなった。その時、私はサプライヤーズクレディットの複利の利率計算をΣを使って計算したので、みんなから驚かれた。私にとっては、別に特別なことではなかった。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください