横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

増井という男は私より2歳年上。
明治大学法学部卒で、東芝医用機器事業部玉川工場生産管理に配属されたそうだ。
私が増井と出会ったのは、私が国際部に移動して数年後だった。
増井は本社の放射線の生産管理という仕事で会ったのが初めて。私が納期の確認をすると、「分かった」と言うだけで、あまりその約束を守る人ではなかった。
その内、彼は企画部に移動。
そこで実際、何をやっていたのか私には関心がなかったので全く知らない。
彼の近くにいた人から聞いて、彼がどのように変わっていったのか理解が出来た。
企画部には主任として行ったから、もう30歳は超えていただろう。
そこには、石垣という主任が既にいた。
彼らの上司は、既に紹介した住田部長だった。
住田は、英語のできる石垣を重用して海外オペレーションを見させた。
あまり、仕事の無い増井は、仕方なく国内マーケットを見ることになった。
国内マーケットは既に東芝メディカルという販売会社がほぼ独立してオペレーションを展開していたから、増井が出て行って丁々発止で交渉することはなかった。
そこで、増井は東芝メディカルの連中と、ことある度に酒を飲んでいたようだった。
こうして増井は彼らとの関係を強めていった。
日頃から関係の薄い住田や石垣が、東芝メディカルに頼み事を持ち込んでも、東芝メディカルの連中は簡単に首を縦に振ることはなかった。
そんな時は増井は、手をこまねいて黙って見ているだけ。
住田が困り果てて、増井に頼むと漸くことが進むという按配である。
こうして、増井の存在は徐々に大きくなっていった。
特に、人事問題はなおさらである。
東芝の医用機器事業部や工場の部長の退職後は、東芝メディカルやその子会社の東芝医療用品に椅子が用意されるのが通例だった。
それを取り仕切るのが増井だった。
だから、人事になると医用機器事業部長栗山の特命で増井が動いたのだ。
俗に言う“汚れ仕事”は増井が処理するのだ。
だから、この男は銀座には頻繁に通っていた。それも許されていたようだ。
増井が全く違った人間として私の前に姿を見せた時は、本当にビックリした。
中期計画作成の件で営業の主任と課長が会議室に集められた。
まず、石垣が、中期計画の概要説明を始めた。
増井は石垣と対峙する位置に座っていた。
しばらく、じっと目を閉じて聞いていたが、急に、石垣に向かって、
「石垣❗️お前の説明している中期計画の骨子は、誰が作ったんだ? 俺は聞いておらんぞ。どうせ、住田の浅知恵だろう❗️それとも、栗山の昼行灯の知恵か‼️」
と責め始めた。
この瞬間、私は何が起こったのだろうか、と思った。
栗山は事業部長。住田は仮にも増井の直属の上長。
増井は、この時は誰も怖いものがいなかったのであろう。
こうして、石垣は本当の意味で“石垣”になってしまった。
この光景を見た翌年、増井が部長として国際部に移って来た。
増井は国際部門に所属したこともない。しかも、営業経験もない。
しかし、栗山の“汚れ仕事”をやって来たお礼か、あるいは、企画部から追い出すためか、栗山は彼を国際部長にしたのだ。
その時の、私の増井評は決して良くはなかった。
就任早々、増井は私を呼んだ。
「佐藤さんは岡山大学出身ですよね。しかし、よく頑張っていますね。私は明治大学の法学部卒です。我々は東芝では本流ではないですよね。だから、お互い、協力して、、、。」
と言うのだ。
この人は劣等意識の強い人だなと、その時感じた。
多分、この世界では、知らないことばかりなので、私の協力を得たかったのであろう。
私は別に毛嫌いする必要もなかったので、適当に彼の力を利用した。当然、彼の立場を尊重してである。
増井は彼なりに栗山との関係は大事にしていたようである。即ち、人事の汚れ役は一手に引き受けていたようだった。
ある日、私は昼食からオフィスに戻ってくると、電話でこんな会話をしていた。
「お前は、***に行け。そうしないと後のことは面倒見ないからな。」
どうも、サービス部の部長の退職後のことを電話で話していたようだった。
しかし、相手も頑固に、
「お前の話は聞かない。」と増井の提案を拒否していたようだった。
増井は、最後通牒として、次のように行った。
「よし、分かった。勝手にしろ。その代わり、お前は東芝の関連会社では働けないようにしてやるから、そう思え!」
この一言で、彼は増井の言うことを聞かざるを得なかった。
一方、私の仕事は、実は増井のおかげもあって、スムーズにことを運ぶことができた。
しかし、増井との関係も中国ビジネスを通して、方向がずれていった。

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