横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

私が生まれた頃、父はかなり借金を持っていたそうである。

ある時、親友の借金の、保証人になっていて、その親友が若死にしたため、その債務を父が引き受けねばならぬことに、なったということである。

当時国内では、働くところがなかなか見つからず、だからと言って、親から譲り受けた、田畑を売ることは、最大の親不孝者とされた。

方策に困った父は、一大決心をした。残る道は異国に働きに行くしかない。

新家は敷地二五〇坪の中に、四季折々の果物が、毎年豊富に実った。

当時、南米移民の華やかな時代であり、政府がそれを奨励していた。父も移民を決意して、借金返済を計ったのである。

「女子ども、老人を残して、そんな遠いところまで、働きに行くとは、どういう了見か、田茂も畑も山もあるんだから、今のままでも食っていけるではないか、兎に角思いと留まってくれ。」家族は勿論のこと、親戚縁者も口々に言って引き留めた。

「五年経ったら帰ってくるけん、五年位すぐだよ、自分の十分考えた末じゃから、分かってほしい。」

当時三十一歳の、父の意志は固く、耳を貸そうとしなかったと言う。

結局、五歳の長男光義と、生まれたばかりの私と、三十五歳のハツエと、祖母のフサを残して、一人で移民船に乗った。

行先は南米のペルーだった。

当時海外へ行くことは、大変なことだったと思う。今は飛行機で一日もあれば、地球上の大抵の所に、行くことができるのに、」当時は船で横浜からハワイまで一週間、ハワイからロスアンゼルスまで一週間、ロスアンゼルスからメキシコを経て、約二十日間の船旅、横浜から四,五十日を要することになる。

当時移民団の乗った船は、本当の客船ではなく、貨物船を客船に変えた、お粗末な船だったと聞く。従って、一万トン足らずの船での長旅は、女や老人にとっては、死別するような気持だったに違いない。

最初、父の行ったのは、南米ペルー国の首都リマの北方の、アシエンダ大農場であった。

つまり、一九一四年の対独戦線の年である。

宣戦布告は、ハワイを出てから、船中で知らされた由である。

船は違ったと聞くが、父の従妹の堤民蔵氏夫妻も、ペルー国に渡った。

内地から同じ船で行った人達と、二班に分かれ、この農場で働いていたそうである。家族連れで行った人達の中には、乳飲児もいて、その子を連れて母親も、奴隷のように働いたという。

子に乳を飲ましては、篭の中に寝かせて、畑の畦に置き、川を隔てた湿地帯で、働かねばならなかった。川を渡れば篭の中の子は全く見えず、向こう側の畦まで仕事をしながら行きまた引き返して来るのに、三・四時間かかり、その間、子に何が起きようが、どうしようもなく、歯を食いしばって働いたと聞く。