新家は敷地二五〇坪の中に、四季折々の果物が、毎年豊富に実った。
柿、桃、枇杷、ざぼん、みかん、山桃、柚子、なつめなど、田舎で見かける果物は殆どあり、どれも自分の家だけでは、食べ切れなかった。特に、金柑子は、大きな樹が八本、屋敷の周りに一列に植えられて、収穫時には、一本に実っている量を見積り、木のまま果物屋に売っていた。
野菜も殆どの物を作っていたが、食べきれず他所に配る方が多かった。米は小作に出している所から余米を受け取っていた。
私の父佐太郎は、二人兄弟の弟なので、叔父が本家を取り、父は分家して、新しい家を建てていたので、父は家を新家と呼んでいた。
私は兄と、二人兄弟で、この新家の父の長女として大正三年に生まれた。
父は大変機知に富んでいて、いつも人を笑わせていたと言う。
この時代は日本も貧しく、失業者も多く、特に田舎は、一生米買いと言って、米をまとめて買えず、二、三升ずつ買っていた人も、珍しいことではなかった。
どこの家でも子供が多く食べるだけでも大変な時代だったので、子供が小学校を出ると、子守に出したり、男の子は商家に、住み込みに行ったりして、口減らしをしていた。