夫は入院して、半年ほど過ぎたある日、トイレで倒れて、脳梗塞と診断された。
それから寝たきりの状態となった。意識はあるが半身不随である。
園には、有能な看護婦さんが数人居られるので、適切な処置もして下さるし、医師もすぐ呼べるよう指定の病院があった。寮母さん達も行き届き、寝たきりの人も、毎週入浴させてもらった。
あれだけ、がっちりした体格の夫も、骨のみとなり、一人では身動きも出来なくなった。
娘の住める砂漠の街を訪ふ夢も、足止む夫はかなわざりけり
病床に動けぬ夫の三とせ過ぐ 二百の骨の軋みておらむ
待つよりほか術なき夫を訪ひゆきて 会いて別るる日を重ね行く
夫は時々幻覚症状を起こすようになった。
或る日、私が着くなり、
「昨日はアラスカに行って来た。とても近所だよ。」
更に夫は続けた。
「それはそれは広い所でね、一抱えも二抱えもある大樹が沢山立っている。樹の向こう側に人が立てば、人の姿は全然見えないくらいの大樹だ。」
「あなた、良かったね。念願のアラスカを見て来て。今度行く時は私も連れて行って。」
と私が言えば、
「今盛んに伐採しているよ。雪も積もっていた。きれいだった。」
夫は夢見るように、目を輝かして、にこにこしていた。
ああ、この人は、幻覚でアラスカの樹林を見て来たのだ。でも、それは、今の夫にとって、幸せなことだと私は心底思った。
まだ、元気な時、アラスカの樹林を見て来たいと、もらしていたこともあったので、夫の頭の中に残っていた思いが、現れたのだと思った。
また、ある時、こんなことも言った。
「金はロンドン銀行と、マンハッタン銀行に預金している。管理を信さんにでも頼んだらいいよ。」
信さんとは、娘婿のことである。
「マンハッタン銀行って、どこの銀行なの?」
「アメリカだよ。ニューヨークだよ。」と更に夫は言った。
「あんたも、指輪の二つ、三つ買っておかねば、娘たちにやる形見もないじゃろう。」
私は聞きながら、夫はアメリカへも、ロンドンへも行ったこともないのに、と思いながら故知らず、涙が出た。
幻覚に広き山野をかけめぐり 若き日のごと夫の幸せ
生き死にの境に夫が翔りいる 夢に見つづけしアラスカの森