生命の誕生からいろいろな進化を経て、今に至る私はどこに行くように仕向けられているのであろうか?
これは誰しもが持つ疑問。
p>これを今まで、誰も解き明かしてはいない。
ここに私は疑問を持つのである。
もしも神がいるなら、人間はかくの如く生きなさいと言えばいい。
イエスキリストが神の子なら、なぜ、直接わかりやすい言葉で、我々に説明しなかったのか?
イエスは“博愛”を唱えた。
でも、それは究極の目的ではない。
我々は究極の目的を知りたいのだ。
そこで、私は神という存在を疑い、自らである自らの魂こそを信じることにした。
存在している自分の魂と、存在しない自分の魂。
それこそがエネルギー。
エネルギーこそが実在なのだ。
昔、大学生のとき、エントロピー増大の原理である。
つまり、エネルギーの移動の方向と、エネルギーの質について言えば、
例えば、液体を、電気的に加熱する時など、エネルギーは一方向にしか移動しないことは自明である。
電気エネルギーは冷水を暖めることはできるが、熱水自体からは電気エネルギーは生じない。
つまり、電気エネルギーは質の高いエネルギーであるが、温水のエネルギーの質は低い。
ちょっと解りにくいから言い換えて説明する。
電気で水をお湯にすることはできるが、お湯を水にする過程で、電気は発生しないということである。
すなわち、電気エネルギーは温水のエネルギーより質が高いということである。
魂もエネルギーであるならば、魂にもエネルギーレベルがあるということである。
イエスキリストの“博愛”エネルギーは相当レベルが高いということになる。
人の魂にはもともとエネルギーレベルを高めたいという性質を持っている。
しかし、一方怠惰という性質もある。
魂のエネルギーレベルが高まり、質的変化が生じたら一体どうなるのか?
その答えは、誰も持ち合わせていない。
しかし、魂が本来質的変化をさせるように仕向けているのであれば、質的変化の過程ですばらしい感動と喜びを与えてくれるのだろう。
“博愛”エネルギーに到達する過程で、“感謝”エネルギーの蓄積が必要なのであろう。
しばらくは、このことを考えてみたいと思う。