ライバルとは、「競争者、敵手」と悪されているが、もともとラテン語では、
「同じ川の水を共通に使う人」
という意味。
歴史上、ライバルは沢山いる。
平清盛と源義朝(頼朝の父)などがそうだろう。
でも最も面白いライバルは、最澄と空海であろう。
最澄のが10歳上である。
あまり知られてはいないが、2人とも東大寺学園(こんな名前ではなかったが、東大寺に付属していた大学で、奈良時代の大学はここしかなかった)入学した。
入学資格は、東大寺に関連した家族、地方の豪族などで、金がなければ到底は入れないところ。
定員は約20名程度。
当然、学力がなければ入学できない。
相当な倍率であったという。
この二人はそンな難関を突破した。
しかし、この二人は天才であった。
2年か3年で、いろいろな科目をマスターし、こんな大学には学ぶ者はないと思い中退するのである。
普通に卒業すれば、高僧になれたり、高級官僚になれる人達であったのに。
最澄は、京都の比叡山の麓にこもり、修行をする。
10年遅れて、空海も東大寺学園を中退し、全国行脚の修行の旅に出る。
それから10年以上後、空海はなぜか遣唐使の一員に選ばれる。
その遣唐使の僧侶代表として、」最澄が選ばれるのである。
この時、最澄から見れば、10歳若造の空海は生意気に見えたであろう。
最澄は、唐で半年間、天台宗を学び、天台宗の経典他を持ち帰る。
空海は、2年唐にいて、真言宗をマスターする。
2年の間に、唐の仏教のトップに立ち、継承者に選ばれるほどになる。
しかし、空海は日本で真言宗の普及を決意して、日本に帰国する、
その結果、真言宗を学びたい最澄は空下記の弟子になるのだ。
最澄は比叡山延暦寺のトップで、当時の仏教大学になったのだ。
東大寺学園は奈良時代のみ。
平安時代は、延暦寺がトップ。
しかし、この二人は、実に面白い。
物の考え方がまるで違うのだ。
最澄は川の下に立って、川上を眺めるタイプ。
川上に何かがあると考え、川をさかのぼっていくのだ。
いささか困難である。
しかし、最澄は不屈の意志を持っていた。
一方、空海は川上から川下を眺める人間である。
川上から水の流れに身をま代えて川を下るのだから、割と楽である。
ここでいう川上と川下の意味はこうだ。
川下とは人間そのもののこと。
川上は、解脱すること、即ち悟りを開くこと。平たく言うと”仏になること”。
最澄の仏教は、凡夫が精進に精進を重ね、修行によって仏になろうとするものである。
空海の仏教は、我々人間は初めから仏であるのだから、赤ん坊の仏が大人の仏に成長すればいい。
ただし、人間は川を下る間に、いろいろな欲に惑わされ、仏の道を見失ってしまうのだという。
お釈迦様は、空海の考えのように思う。