横浜こぼれ話は筆者の佐藤栄次が随筆や意見や考えを書いておりますので、一度見に来てください、

空襲を逃れて疎開先へ

義父は二月のころから、胃が悪いと言い、近くの医院から、薬をもらって飲んでいた。それでも、次第に食欲がなくなり、衰えていった。久留米医大に診察に行くよう、みんなで勧めても、本人は大したことはないと言って、診てもらうことを拒んだ。

「どうも普通の病気じゃあないようだ」、と私たちは内々話していた。

手続きを踏んで、久留米医大の博士に、往診をお願いした。二,三日して来て下さった博士は、即刻入院を勧められた。

父には有無を言わせず、翌日入院させた。

病名は腎臓炎と腹膜炎の併発だった。

一進一退が続き、二ヶ月ほどして、病人が家に帰りたがるので、主治医の許可を得て、退院した。先生には、もう治らぬことは分かっていたと思う。

家に帰ってきた父は、安心した様子だったが、帰ってから十日目、昭和十九年四月に息を引き取った。享年六十八歳だった。

至れり尽くせりの看病をしてあげられたことは、私たちにとっても、悔いを残さず幸せだった。